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(②
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)
鷗外の活躍した明治時代-
村らの自然主義の文学が全
の文学を快く思わない人た
石と森鷗外だった。
鷗外の子どもの名前
鷗外には二男三女の五人の
それぞれの名前は、長男於
杏奴(あんぬ)、次男不
いう。
これは、自分の本名「り
いものだったため、子ど-
イツ語やフランス語で通
であった。 そえぞれ「
ッツ」 「ルイ」に通じる
●鷗外の挑戦
政府中枢の一員とは
る作品も発表。 ⇒ エ
・「妄想」・・・ドイツで
・「普請中」・・・ドイツ
・「半日」…鷗外の家
・「沈黙の塔」….大逆
・「鼠坂」…中国でのロ
・「ヰタ・セクリアス」
PENT=7
「安楽
一八六二年島根県津和野に生まれる。
本名は (1
森家は津和野藩主亀井家の典医であり、長男の林太郎は医
者になるべく運命づけられていた。藩の学校、養老館に通い、
語を学ぶ。
オランダ語を学び、父と上京し (2
十二歳で第一大学区医学校(今の東大医学部)に入学する。
十九歳で卒業し、卒業後は陸軍二等軍医となる。
一八八四年~一八八八年(3
) 留学。医学を学ぶ
一方で、文学や美術も学び視野を広げる。
一八八八年(二十六歳) の九月八日に日本に帰国するが、九
月十二日に「舞姫」のエリスのモデルとなったドイツ女性が
来日する。
一八九〇年ドイツ留学中の体験を素材にした短編小説
を発表。「4」「5
「6
」はドイツ三部作と呼ばれる。
文学活動を休止し、軍医として (7
戦争や
) 戦争に従軍、陸軍軍医総監という最高の地位
に上りつめていく。
一時は離れていた文壇に復帰し、長編小説 「青年」、中編小
説「雁」「ヰタ・セクリアス」などを発表。文壇は自然主義
文学の全盛期だったが、 (9
)とともに
セリファース
の立場に立って対抗した。
一九一二年明治天皇崩御を追った (11
以後(14
の殉死に衝撃を受け、興津弥五右衛門の遺書を一気に書き、
・「高瀬舟」
小説に進んでいく。「阿部一族」「大塩
平八郎」「三章大夫」「最後の一句」「高瀬舟」などの(12)
を次々発表。歴史の事実を重んじる執筆態度を歴史其儘と
いい、フィクションを取り入れる方法を歴史離れと呼び、後
者の方への移行を表明していた。
一九一六年に陸軍の勤務を引退した頃から幕末の人物の足
跡を克明に考証する史伝の領域に踏み入れ、「渋江抽斎」「伊
沢蘭干」などを発表した。
一九二二年六十歳で死去。「余は石見森林太郎として死せん
と欲す」と遺言し、 各地にある墓には「森林太郎墓」としか
書かれていない。