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現代文 高校生

「前者を信じる人はあまりいないが、後者はそれを唯一無二の真実だと信じる人がいるということ」 これはダメてしょうか?

*しんし はら わず いや少なくとも私が書くルポルタージュなどというものも、それが絶対の真実を 35 伝えるなどというたいそうなものではなく、僅かにどこがわかりどこがわからな かったかを明らかにできるだけの私的な中間報告にすぎないことが理解できてく る。たとえそれが、どれほど見事に完結した結構を持っていたとしても、せいぜ いがひとつの仮説にすぎないのだ。多分、あらゆる記事、レポートは中間報告で あり仮説である。 テレビで、朝となく昼となく主婦向けの番組で流されつづけ ている、いわゆる芸能レポーターたちのゴシップは、いかにも胡散臭いから逆に 救われているところがある。最近では、彼らのレポートを見聞きして、それをそ のまま信じてしまう人はあまりいないだろう。意識するとしないとにかかわら ず、それを一種の仮説と受け取る訓練ができているのだ。 様 もしかしたら、本当に怖いのは彼らのヤクザなレポートではなく、いかにも 真摯で、いかにも世を憂い、いかにも真実はこれだ、と主張しているようなもの うれ *うさんくさ かもしれない。それ自体が単なるひとつの仮説にすぎないということを忘れ、書 き手も読み手もこれを唯一無二の真実だと思い込んでしまう。そのようなレポー ト、記事は、書き手の善意の有無にかかわらず、常に危険なものに転化していく 可能性を孕んでいる。 愛 3 50

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現代文 高校生

答えは「ニ」なのですが、なぜ「ハ」はダメなのですか? 第3段落の話は17世紀以前の話ではないのですか?

/co/ ■■ FRUST EE] et 第七問 次の文章を読んで、後の問に答えよ。 a_ [ かつて、人間の生活と生命の安全を脅かすものは「自然」であった。 地震、津 波、洪水、火山の噴火、台風、あるいは野獣の襲撃など、 「自然の脅威」と呼ばれ るものが、人間にとって、最大の危険であった。もちろんその前に、十分な食料 や雨露を凌ぐだけの住居の確保、あるいは病気と怪我への対策などが、よりキ ンキュウな関心事であったろうが、しかし共同体が、あるいはそこで育まれた知 恵が、そうした対策をある程度引き受けたとしても、「自然の脅威」はどうにもな らなかった。この事情はどの文化圏においても、本質的には同じだったと言って よいだろう。 5 *き 西欧の歴史においても、事情は変わらなかった。とくにキリスト教の支配する ヨーロッパにあっては、創造主である神の計画に支配されている自然は、人間の 制御や支配の能力を超えたものとして、ある程度以上の自然への人為の介入は忌 避され、あるいは諦められていた。むしろ自然のなかで人為を如何に生かすか、 ということに人々はフシンしていたとも考えられる。たとえば、森林のなかに 溶け込むように建っている古い修道院や教会の建築などは、そう思わせる オモムキがある。しかし、一八世紀になって、ヨーロッパは俄然大きな転回を 5 経験する。 がぜん もちろんユダヤ・キリスト教の伝統のなかには、神がこの世界を創造したのち、 その管理を人間に委託したという思想が含まれている。「創世記」 第一章の記事 は、そのことを語っているし、神学的にも「地の支配」という言葉が残ったこと も、それを裏書きしている。かつてアメリカの技術史家リン・ホワイト・ジュニ 2 アは、そのことを根拠に、キリスト教こそ、今日の地球環境の危機を招いた元凶 *げんきょう *さくしゅ であるという告発をした。「創世記」の言うところを根拠に、ヨーロッパは、自然 を人間の自由になるもの、搾取すべきものとして捉えてきたために、地球的な危 機が生じたからだ、と言うのである。口 この見解に従えば、キリスト教的ヨーロッパには、本来、自然を人間の意の 25 ままに制御、支配、搾取する契機が内包されていたことになる。 5 しかし、 この言い分は、一七世紀までのヨーロッパの自然に対する姿勢が、 一八世紀になって急旋回を遂げたという点を考慮に入れていないという点で、根 本的な ケッカンがあるように、私には思われる。 けいもう めいもう 言うまでもなく、 一八世紀ヨーロッパの特徴は啓蒙主義である。 彼らが攻撃目 標に定めたのは、キリスト教そのものだった。人間をキリスト教という迷蒙から 解放し、 人間理性を至上のものとして位置付け、すべてを、人間理性の支配の下 に再編成すること、これが「啓蒙」という考え方の根本であった。そこから「文 明」という概念も誕生した。 弟

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現代文 高校生

香山リカさんの「空気を読む」という作品に対して自分がインタビュアーとなって質問をするという勉強をしているのですが全くわかりません💦 なにか()内に埋まるようないい言葉はありませんか😢

23 私は、自分が勤めている大学で、「神経難病で呼吸機能が低下したときの人工呼吸器の 「装着」といった生命倫理に関する問題や、「人身売買」 といった社会的問題について、具 体的なケースの検討を通して学生たちに考えてもらうことがある。そこで「もしあなた だったら、どうしますか。」と問うと、ときどき「私はそうなることはまずないと思うので、5 わかりません。」とか「そういう人がまわりにいないので、想像できません。」という答え が返ってきて、驚くことがある。いま健康であること、いま平和で豊かな社会にいること は、偶然であるかもしれないのに、それがあたかも当然であり、その「安全な多数派」で あるという状態がいつまでも続くかのように思っているのだ。そして、そうでない人たち、 つまり今の自分から見て 「少数派」である人たちの気持ちを想像する必要などないではな いか、というのが暗黙の了解になっているようなのだ。

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現代文 高校生

サイボーグとクローン人間という作品の意味段落分けの仕方が分からないです。本文全てを載せてあります。解説お願いします!

サイボーグとクローン人間 山崎 正和 テレビの教養番組で、アメリカのロボット研究の現状を見た。映像による報告はさすがに生々しく、 改めて文 明の行方について考えさせられた。 研究の一つの方向は、ロボットの精神的な能力を拡張し、判断力や感情さえ持った機械を造ろうという試みで ある。 外形も二足歩行の人体に似せ、顔の表情まで再現する技術が磨かれている。 脳の働きをするコンピュータ がさらに発達すれば、ロボットが人間と手をとって街を歩く日も遠くないという。 もう一つの方向は、人間の身体の一部を機械で置き換え、脳と機械を直結するサイボーグを造ろうという動き である。 これはすでに身体障害者の補助器具として実現していて、 肩の筋肉の指令を受けて動く精妙な義手が発 明されている。 光を感受するチップで失われた視力を回復させたり、衰えた脳の中に記憶装置を埋め込む研究も 行われている。 この努力の究極の姿は、やがて人体から脳だけをそのままに残し、四肢や内臓のすべてを機械で 補強する、人間改造計画に行き着くことになるらしい。 見ていて不思議だったのは、現場の研究者も評論家もこうした研究にきわめて楽天的だということである。 ク ローン人間の研究にはあれほどの嫌悪を示し、 大統領の禁止勧告まで生んだこの国の反応とは対照的だというほ かはない。 クローン人間を忌避させているのは、人間を神の被造物と見るキリスト教の思想だろうが、 その禁忌 が機械的な人間の製造、あるいは改造には及ばないことが、印象深いのである。 合理的に考えれば、 クローン人間の誕生はおよそ非人間的な事件ではない。 それは子が親と同一の遺伝子を持 って生まれることであるが、同一の遺伝子の共有は必ずしも個性の否定にはつながらない。人間の個性は環境や 教育に左右されるところが多く、遺伝子だけで決定されないことは、自然の一卵性双生児を見れば明らかだろう。 さらにクローン人間は人造人間ではなく、卵細胞と体細胞、それに子宮を提供する人間の親がいることを忘れて はなるまい。 そこには当然、家庭が生まれ、親子の愛や葛藤も芽生えるはずであって、子どもが感情の砂漠の中 で育つ心配は少ないのである。 しかもクローン技術が人間に適用される場合、 それが優生学的改良に直結する懸念もかなり薄い。 ある能力を 持った遺伝子が複製されても、能力が強化される理由はなく、それがそのまま子どもに現れるという保証もない。 そこには再び教育の手が加わる必要があるはずだが、その過程で子どもが自我に目覚め、先天的な素質を裏切る 可能性もあるからである。 これに比べると、ロボットやサイボーグははるかに人間の恣意に従いやすく、特定の価値観や世界観の奴隷に なる危険が高い。 肉体の腕よりも強い義手は、 強いことはよいことだという思想の実現であり、より多く環境を 支配したいという無意識の願望の反映だといえる。 脳内に記憶装置を埋め込めば、思い出も忘却も意志の力で操 作することになり、人間は自分の過去すら自分で構築することになる。 クローン技術は生命の法則に対しては受動的であって、細胞核を入れ替えた後の過程に手を出すことはできな い。だが、身体を機械で置き換える技術はどこまでも能動的であり、細部まで人間の思うとおりに造り上げてし まう。しかも注意すべきことは、そうして造り上げた身体はやがて逆転して心に影響を及ぼし、人間の考え方、 生き方を思いがけぬものに変化させるということである。 人間の心がいかに身体の影響を受け、 身体と一体になって生きているかは、毎日の生活の中で実感することが できる。 病気になれば悲観的になり、運動能力が高まれば世界を見下すような気分になる。 これまでも身体の延 長として道具を使いこなし、 機械を発達させたことで人類はどれだけ傲慢になったことだろうか。 もし将来、自 分の身体そのものを機械化して数倍の力を持ち、あるいは人体に似た機械を召し使いにできたら、 人間は自分を 神か超人のように思いなすのではないだろうか。 それが倫理的によいとか悪いとか、今日の文明の中で即断することはできない。 身体が機械になり心が神にな れば、そのときは文明の全体が変わっていて、倫理のものさしも変わっているかもしれない。 しかし確かなこと はこの変化は深刻であり、 二十世紀までの文明を終わらせるおそれさえあるということである。 興味深いという より恐ろしいのは、 現代人がその可能性を十分に自覚しておらず、その無自覚がクローン人間には厳しく、サイ ボーグには甘い価値観のよじれに現れていることなのである。 紛れもなく、サイボーグ肯定の思想の背後にあるのは、近代の脳中心の人間観である。 もっといえば、心と身 体を二つに分け、心は脳に宿っていると考える先入観である。 実は二十世紀後半の哲学はこれに疑問を投げかけ、 心と身体の一体性、相互作用を重視するようになった。 しかし、科学者を含めて大多数の現代人はまだこの二元 論を信じていて、身体を取り替えても心の同一性は守れると感じている。加えて心は脳の専有物だという、 古い 常識から逃れられないでいるのである。 その上に大きいのは、現代人が個人の福祉を絶対視し、現に生きている人の幸福を至上命令と考えていること である。 障害者や高齢者に補助器具を提供し、 身体能力を回復することは正義だという世論を、現代人は疑うこ とはできない。現にサイボーグはそういう善意から研究され始めているのであって、 そうである限りこの研究を 現代文明は非難することができない。 一方、 まだ生まれていない生命、現に生きていない個人を生もうというク ローン技術には、当然この世論の追い風がないのである。 だが困ったことに、身体能力の回復から改善までの道はほんの一歩しかない。 誰しも自分の身体を十分だとは 思っておらず、 十分にしたいと願っているものの、何が十分であるかは誰も知らない。ただ人並みに生きたいと いうつつましい願いが、とかく人並みを超える競争を招くのであって、そのことは今日の消費生活を見れば明ら かだろう。たぶんサイボーグは二十一世紀の「超人」を生むのだろうが、それはニーチェの反俗思想ではなく、 平 的生活を求める庶民のいじらしい願望がもたらすことになりそうなのである。 こんなことを考えながら、私はべつに警世論を張っているつもりはない。 いつの時代にも文明は変わるもの であるし、それも合理的な「進歩」とは無関係に変化するものだろう。 ただおもしろいと思うのは、文明を変える ものが必ずしも冒険的な好奇心ではなく、ある時代に最も常識的な、社会の通念でありうるという逆説である。 人々が「危険」な好奇心を警戒しているうちに、ひそかに安全な良識がそれ自体の足もとを隠してしまう。それが 人間の悲しさというべきか、それこそが尽きない魅力の源泉だというべきだろうか。

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現代文 高校生

「科学への盲信」と逆のあり方を示す事例としてあげられている部分を本文中から35字程度で探して書きなさい。 という問題で、解答が「自分で病原菌や毒物を検出し、その食べ物がキケンかどうかをチェックする」 となっていて、この答えになると理解はできるのですが、この答えへの導き方?っ... 続きを読む

【六穴】次の文章は「王】 鼻や舌などの「感覚」で判断するとはなんと非科学的な、そんなことで大丈 夫なのか、もっと「科学的」でなければいけないのではないかと言われそうで す。 科学的とは多くの場合、数字で表せるということです。具体的には、冷蔵 庫から取り出したかまぼこに書かれた日時をさすわけです。(衛セイ的な場 所で製造されてお店に出されていると信じ、安全性の目安として書かれてい る期限を見て、その期間に食べるのがふだんのやり方です。それを科学的と称 しているけれど、これでよいのでしょうか。こうした判断のしかたは、私には、 自分で考えず科学という言葉に任せているだけに思えます。 「科学への盲信」 で成り立っているように思います。 もちろん、「感覚」だけではわからないことがたくさんあります。 科学を通 じて微生物による腐ハイや毒物の生成などの危ケン性を知り、それに対 処することは重要です。 しかし、賞味期限内であればキケンはなく、それを過 ぎたらキケンと、数字だけで決まるものではありません。科学的な知識があっ たとしても、毎日の生活の中で、自分で病原菌や毒物を検出し、その食べ物が キケンかどうかをチェックするわけではないのですから、科学による「保証」 の限界を知ることが大事です。 食べ物を自らの手で作ったり、採ったりしていた時代には、安全性につい ては自分で責任を持つしかありませんでした。科学・科学技術のおかげで、よ 進歩した暮らしやすい生活ができるようになり、安全が保証された形で、食 べ物が手に入るようになったのはありがたいことです。でも、そこに期限を決 める数字が印刷されるようになると、それに振り回され、それに従うことが X 正しい暮らし方のようになってしまいまし。自分では全く学に虫して、

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現代文 高校生

レベル1の④、⑤、⑥ レベル2の①〜⑤ 教えてください

作文の基礎 - ★ 11 2 の 次の五文(七文)を意味が通るように並べかえ、記号で答えな さい。 ① 普段から楽しみとして古典文学を読む人は少ない。 まずは、そういった作品を気軽に読んでみてはどうだろうか。 しかし、古典文学にもいろいろあるのだ。 平易な作品も、くだらなくて笑ってしまう作品もある。 難しい、堅苦しいというイメージが強いからだろうか。 [ア なぜなら、最初から完璧にやろうとするととても面倒だからだ。 私は、何でも思いついたことから実行していけばよいと思う。 面倒だと、結局何もしないということになりかねない。 個人での防災対策とは、何をすればよいのだろうか。 それよりは、やれることを積み上げていく方が確実だろう。 [Z→イ→アーウレオ] ③ これに対して清水くんが、節電をすれば問題ないと反論した。 X クラスの討論会で、原子力発電廃止の可否を話し合った。 一方、伊藤くんは電力不足の危機を指摘し、廃止に反対した。 そこで、データを集めて二人の意見を検討することになった。 田中さんは安全を最優先し、廃止するべきだと主張した。 文をつなぐ ③ 接続表現・指示語― → 4 →K→ --- ] [イリオンアーウエー 「 ④ 私もその一人だが、実際、産業革命後に環境問題は深刻化した。 しかし、環境問題は人類全体に関わることである。 ウだから、その解決の責任も工業界にあると思われがちだ。 エ それゆえ、一部に責任を押しつけても仕方がないのだ。 環境問題の主な原因は工業にあると考える人は多い。 ⑤ア彼らはなぜ、あえて危険を冒すようなまねをするのだろうか。 いわば、未知の世界を知りたいという欲求である。 ウ 目的はさまざまだろうが、根底で共通しているのは好奇心だ。 エ険しい山、深い海、そして無限の宇宙空間に挑む人々がいる。 オこうした欲求が人間社会の発展の原動力となってきた。 このように使いやすくなった自転車の利用者が増えるのは必然だ。 イメーカーは主婦だけでなく、学生にも目を向けて開発に取り組んだ。 ウ その飛躍の陰にはメーカーの努力がある。 エしかし、それに伴って事故も増えているという。 オさらに、見た目だけでなく性能も向上させ、こぐのを楽にした。 カ例えば、サドルの柄をおしゃれにしたことがあげられる。 電動アシスト付自転車の出荷台数がぐんぐん伸びている。 ← ->> [オー 検印欄 →→ 22 [ L コ

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現代文 高校生

全ての人に安全な水を提供するための可能な手段方法を500字以内で教えてください! 写真などを参考にしていただけると嬉しいです

資料1 取水量と都市人口比率 150 100 80.0 70.0 60.0 50.0 40.0 30.0 CHOPAR E 日本 20.0 10.0 資料2 都市人口比率の推移と推計 900.00 0.0 + 一取水量 (L) 例 102 都市人口比率 生活用水としての使用量 都市への集中度 先進国 内で書きなさい。 次の資料を読み、取水量と都市人口比率に関する問題点を挙げたうえで、その対策を縦書き八〇〇字以 手順 は都市人口比率が低い。 市人口比率が高く、開発途上国 ・日本や韓国といった先進国は都 と考えます。) えるため、インドネシアは例外 量が多い。(全体の傾向をとら ・都市人口比率が高い国ほど取水 とめます。 まえて、まずは資料1の特徴をま 題点」と「対策」 です。 それを踏 設問文が求めているのは、「問 資料の特徴を読み取る (資料1) 中国 マレーシア フィリピン 先進国 アジア 7 BER J 日本 B 1950 1955 1960 1965 1970 1975 都市人口比率(%) FEMARA 1P2C 2 発展の度合と 豊かさの条件 全世界 ベトナム インド インドネシア 2020252030 (年) A (資料1 2 日本環境会議 「アジア環境白書 2003/04」 東洋経済新報社/国連資料より作成) 資料2を用いた理由? 生活用水は増加傾向 国名が出ている理由? Hin 発展の度合 60

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