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日本史 高校生

日本史の問題です! この問題が分かりません! その時の時代背景とか社会情勢、国内の政治状態など含めて書かないと行けません💦 誰かわかる方教えてください! (写真分かりにくかったら教えてください!)

【7】 1941年12月8日、太平洋戦争(大東亜戦争)が開始される。 この戦争の開始を決断し遂行 していくのが東条英機を首相とする内閣である。 そして、 この戦争では軍人や一般市民 の多くが犠牲となり、 国内の多くの都市が焦土と化した。 このような惨劇は二度と繰り返し てはならない。 もし、あなたが1941年10月時点の首相 (兼陸相)であればどのような決断を下しますか。 次の選択肢 ① ~ ⑦ よりあなたの考えとあっているものを選び、 なぜそれを選んだのか資料 をもとに具体的に理由を述べなさい。 ① 「対米交渉を続け外交で解決し、 戦争を回避する」 ② 「対米交渉と戦争準備を並行し、交渉が決裂した際には対米・英・蘭との戦争を発動する」 ③ 「対米交渉を打ち切って戦争準備を行い、 それが整い次第、 対米英蘭との戦争を発動 する」 ④ 「対米交渉を打ち切り、資源確保の観点から英・蘭に対して戦争を発動する」 ⑤「陸軍を説得し、 中国との講和および南部仏印からの撤兵を実行することにより、米国から 譲歩を引き出す」 ⑥ 「内閣を総辞職し、 他の人物へ対米交渉などの決断を委ねる」 ⑦ 「①~⑥以外の考え」 注) 英・・イギリス 蘭 ・・オランダ ④ の意図として英・蘭ともに東南アジアに植民地を有し、 資源(石油・ボーキサイトなど)が 豊富である。 そのため、この地域のみを対象として戦争を開始し、対米戦争は行わない 立場である。 ⑤ の意図として中国からの撤兵はあくまで満州までとし、満州国の存在も否認しないこと を前提とする。 ⑦を選んだ場合はあなた独自の考えを明記すること。 【7】 の問題は事前に配付している別紙資料を参考にして解答すること。

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日本史 高校生

日本史の問題です! この問題が分かりません! その時の時代背景とか社会情勢、国内の政治状態など含めて書かないと行けません💦 誰かわかる方教えてください! (写真分かりにくかったら教えてください!)

【7】 1941年12月8日、太平洋戦争(大東亜戦争)が開始される。 この戦争の開始を決断し遂行 していくのが東条英機を首相とする内閣である。 そして、 この戦争では軍人や一般市民 の多くが犠牲となり、 国内の多くの都市が焦土と化した。 このような惨劇は二度と繰り返し てはならない。 もし、あなたが1941年10月時点の首相 (兼陸相)であればどのような決断を下しますか。 次の選択肢 ① ~ ⑦ よりあなたの考えとあっているものを選び、 なぜそれを選んだのか資料 をもとに具体的に理由を述べなさい。 ① 「対米交渉を続け外交で解決し、 戦争を回避する」 ② 「対米交渉と戦争準備を並行し、交渉が決裂した際には対米・英・蘭との戦争を発動する」 ③ 「対米交渉を打ち切って戦争準備を行い、 それが整い次第、 対米英蘭との戦争を発動 する」 ④ 「対米交渉を打ち切り、資源確保の観点から英・蘭に対して戦争を発動する」 ⑤「陸軍を説得し、 中国との講和および南部仏印からの撤兵を実行することにより、米国から 譲歩を引き出す」 ⑥ 「内閣を総辞職し、 他の人物へ対米交渉などの決断を委ねる」 ⑦ 「①~⑥以外の考え」 注) 英・・イギリス 蘭 ・・オランダ ④ の意図として英・蘭ともに東南アジアに植民地を有し、 資源(石油・ボーキサイトなど)が 豊富である。 そのため、この地域のみを対象として戦争を開始し、対米戦争は行わない 立場である。 ⑤ の意図として中国からの撤兵はあくまで満州までとし、満州国の存在も否認しないこと を前提とする。 ⑦を選んだ場合はあなた独自の考えを明記すること。 【7】 の問題は事前に配付している別紙資料を参考にして解答すること。

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日本史 高校生

中世の日本社会では自力救済の行動が一般的だったが、国を治める為政者たち、特に戦国大名は私闘が連鎖・拡大し、大名間の争いに発展しないようにするため、どのように工夫したのか、本文をもとに90字程度にまとめなさい。(教科書P.115参照) 教えてほしいです。よろしくお願いします!

良, 博多など、 市が発達し おこった。特に 山(大坂)や旨み n. PREMIE 城下町が多く生 かまえて政庁と 築き、土塁や空 の家臣や商工 の中心となった。 どもさかんとな 商人による自 た。これらの 二連合し、町人15 1像 (西本願寺) 御坊古図 125 S 歴史を探る 自力救済の抑制一暴力の連鎖を断ち切るために ちょうてい 中世の日本社会には、朝廷や幕府, 寺社勢力などが並立し, 統一的な政治権力が存在しなかった。 さまざまな権力による多 様な法や裁判は,たがいに矛盾する場合すらあり,中世の人々 は、問題解決のための当然の権利として,しばしば実力行使に およんだ。 必ずしも権威や権力にたよらない、自力救済の発想 にもとづく行動である。言いかえれば, 「自分の身は自分でまも りききゅうさい しとしん る」というのが,生きるうえでの指針の一つであった。 いせい。 のほう 一方、為政者たちの視点に立つと、野放図な自力の発動をお さえこむことは,安定的な統治の構築に不可欠であった。たと いまがわ ぶんこくほう えば 戦国大名今川氏の分国法には,次のような条文がみえる。 けんか およともから 「一喧嘩に及ぶ輩 理非を論ぜず、 両方ともに死罪を行なふべ なり せいばい ・・・・・・次いで喧嘩人の成敗, 当座その身一人所罪たる上、妻 もくろく 子家内等にかかるべからす。」(今川かな目録) 前半は、喧嘩があった場合, 大名権力がその事情にかかわら ず両方を同等に死刑にするとした規定である。 これは,喧嘩の ほうふく しとう れんさ 当事者の関係者が報復行為に出て, 私闘が連鎖・拡大すること そち を防ぐための措置であった。 また, 喧嘩をおかした罪を当事者 の妻子にはおよぼさないという後半の規定は, いきすぎた連帯 責任の追及を防ぐためのものだろう。 この「いきすぎた連帯責任」 という点については、戦国大名伊 じんかい 達氏の『塵芥集」の条文も参考になる。 「人を斬り、人を殺し 候返報 (しかえし)として、同じ国 (伊達氏領 国)の者であるからといって)。 他国にて絹拘へられ、又は討たる つみ わから る事あらば, 根本犯し候罪の族 (最初の殺人を犯した伊達氏領国 たず の人間)を尋ね探り, 成敗を加ふべきなり。」 いっぺんかいろえ さんぞく ↑護衛をつけて旅する人たち (『一遍聖絵』, 清浄光寺蔵) 蓑をかぶって弓を持つ山賊の ような人々をやとい, 護衛兼道案内とする ことがあった。 これも自力で自分の身を 守る, 中世の人々の知恵であった。 ちらし定食 うれし INDING! ますま マ だけ ありえするためろ!と ↑今川かな目録 ( 明治大学博物館蔵) 伊達氏領国 A 打つ D ② 報復 かんこう 伊達氏領国の人(A)が、 何事かをきっかけに他国の人 (B) を 殺害した。 すると,当時の慣行として, (B) の関係者である他国 の人 (C) が 殺人事件とは関係のない伊達氏領国の人 (D) を, ちち 他国に拉致したり殺害したりすることがおこりえた。 もし、そ うした事態になった場合には,最初に殺人を犯した人 (A) を伊 ほうてい 達氏の法廷が処罰する, という規定である。 実は、この伊達氏の法令は、個人間の報復行為を大名間の争 いに発展させないための工夫でもあった。 なぜなら, 報復の応 おう しゅう えんじゃ 酬や私闘の連鎖に、もし戦国大名の縁者や家臣がからんでいた ら,大名どうしの戦争に発展するおそれがあったからである。 戦国大名は, 好きこのんで戦いをしていたわけではない。 な るべく戦争にならないよう、他国と同盟や婚姻関係などを結び, こんいん 大名権力 大名権力 平和の維持につとめた。 しかし, それでも戦国の動乱はつづき, ↑「塵芥集」にみられる自力救済の抑制 〈概 自力救済の抑制という課題は、次の時代にもちこされた。 念図) 他領国 masin! ①殺害 B スポン C 115

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日本史 高校生

問1の答えあっていると思いますか?答えがないので教えて頂きたいです。

第7問 災害史 日本列島は自然豊かであると同時に、自然災害ともつねに背中合わせの歴史を歩んできた。 災害に関する下の問い (問1~4)に答えよ。 問1次のグラフと表は、古代の飢饉の原因について、『続日本紀」などを基にデータをまと めたものである。 これらを見て、 下の問い (1) (2) に答えよ。 グラフ 表 8% 256%- 679年 ~791年 1000年 - 1099 F 1150年 ~1200年 158 1200年 ~1299年 日本紀』に記載された干ばつ、風雨 地震災害 煌害の件数と比率 全国計 近畿 東海 山陽・四国 東北 (出羽・ 陸奥) 関東 173 45% 31.3% 133 50 52 RE SORELL - THIE 降雨 寒冷 高温 59 67 24.7% 4.2% 28.0% 52 35 21.1% 42 3.9% 16.3% 85 10.8% 14 10 13.5% 24 21 [] 干ばつ | 風雨地震・災害蝗害 14.5% 87 31% 見益吉郎(1979) 日本紀に見ると京都大学学会誌による。 10 154 56% 121 乾燥 104 43.1% 55 33.1% 51.8% 377 47.7% 15.3% 198 41 73 1280年 1350年 60.7% 4.3% 12.6% 22.4% 72 4 13%- 28.0% 207 26.2% 計 239 166 257 790 5 16% 326 6 19% 16 52% (1) グラフと表から読み取れることを説明した文XYについて,その正誤の組合せとし て正しいものを、 下の①~④のうちから一つ選べ。 X 飢饉の原因について地域による差異はなく、どの地域でも干ばつが最も多い理由であ った。 Y 飢饉の原因は気候変動に左右されるため、年代によっては大きく異なる。 4 X-E Y-E @ X-IE Y一誤 ③ X 一誤 Y-E X誤 Y一誤 (2) 次の文章はある地域の風土記のものである。 この風土記が記された地域を下のX・Y から、その理由として最も適当なものを下の①~④のうちから一つ選べ。 「霖雨に遭はば、即ち苗子の登らざる歎を聞き, 亢陽に遭はば,唯 穀実の豊稔なる よんこな 歓をみむ」 3 地域 X 出雲 理由 常陸 長く雨が降ることを喜んでいるため、干ばつの飢饉が多い東日本の風土記であると判 断できるから。 長く雨が降ることを喜んでいるため、長雨による飢饉が多い西日本の風土記であると 判断できるから。 日照りが続くことを喜んでいるため、長雨による飢饉が多い東日本の風土記であると 判断できるから。 日照りが続くことを喜んでいるため、干ばつの飢饉が多い西日本の風土記であると判 断できるから。 問2 次の資料は18世紀に起きた江戸時代で最大の飢饉の様子を記録したものである。これ を読み. 下の問い(1) (2)に答えよ 資料 出羽陸奥の両国は、 常は豊穣の国迫しが、 此年はそれに引かへて取わけての不熟 にて、南部津軽に至りては余所よりは甚しく (中略)元より貧しき者共は生産の 手だてなく. 父子兄弟を見棄ては我一にと他領に出さまよひ嘆き食を乞ふ されど. 行く先へも同飢饉の折からなれば、他の人には目もかけず. 一飯あたふる人も なく日々に千人. 二千人流民共は餓死せし由 又出行事の叶ずして残り留る者 は食ふべき物の限り食ひたれど、後々には尽果て先に死たる屍を切取喰ひしま (後略)。 ( 『後見草』) (1) 資料に描かれている地域を地図のアイから選び、資料から読み取れる内容をウエ から選んだ場合、その組合せとして最も適当なものを、下の1~4のうちから一つ選べ。 A 地図 内容 ウ地域のなかには豊かな収穫があった地域も存在したため、 他領からきた困窮化した人 びとに食事を恵むことがあったことがわかる。 エ貧しくても他領に移動できない人びとのなかには屍さえも食すほど飢餓に苦しむ人び ともいたことがわかる。 59

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日本史 高校生

日本史の問題です。回答を比較したいので全てに回答して頂けると幸いです。よろしくお願いします。

|アジアに緊張がはしった。ヤマト政権では朝鮮半島政策がいきづまる中,蘇我氏が 14 13 推古朝の政治と飛鳥文化 )に適語を記入し,下の問いに答えよ。 14 律令国家の確立と白風文化 次の文章の( 01 りに適語を記入し,下の問いに答えよ。 次の文章の( 643年,蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子(1 01 )を滅ぼした。この頃,n2 02 03 渡来系氏族を配下におき大陸の先進文化を摂取して台頭した。 03 14 蘇我馬子は,587年に対立していた(? )を滅ぼし、592年には 04 05 (3 )天皇を暗殺して政治権力を握った。続いて即位した(4 )天 )は協力して。国家組織の形成 が中大兄皇子と( 645年,中大兄皇子と(2 )であった。 )は飛鳥板蓋宮にて蘇我入鹿を謀殺した。これが06 05 皇のもと,蘇我馬子と天皇の甥である(5 を進めた。 いたよ重のみや 06 )の変である。新政府では,(4 )天皇が即位し,皇太子に中 07 )宮に |08 )の変 | 09 07 )が派遣されている。。遺廃使に随 外交では607年に。遺廃使として(6 るがくしょう 行した留学生や学問僧は中国の進んだ制度·思想·文化を学び,後の政治に十。 (3 大兄皇子,左大臣に阿倍内麻呂,内臣に(2 )が就任し,都を( )」を発布して改革に着手した。( 08 遅した。翌年,新政府は「(6 にはじまる一連の政治改革を(' )という。 7世紀後半,朝鮮半島では (8 問1 影響を与えた。 (4 )天皇、蘇我馬子, ()が活躍した時期の文化が飛鳥文化である。この )が統一にのりだした。660年,( )|010 )011 文化は蘇我氏や皇族により広められた仏教中心の文化である。蘇我氏の氏寺でまる で), ($ 代表的寺院である。寺院の内部には,。中国の南北朝の様式を取り入れた仏像が安 は度と結んで百済を滅ぼした。朝廷は百済復興支援のため, 663年( で度:( )軍と交戦したが大敗し,以後朝鮮から退くこととなった。( )の動きに対応するため国防を強化した。 )の創建といわれている四天王寺や() )はこの時代の 問2 012 の戦いの後,中大兄皇子は唐·(8 さらに都を(10 天皇は内政を整備する一方,唐との国交回復に努めた。 置されている。 )宮に遷し,翌年即位して(" 013 )天皇となった。 の Iの 014 (1 下線部@について, の 王権組織の再編のため,氏族によらず個人に冠位を与えた制度を何というか。 )天皇の死後の672年,天皇の弟大海人皇子は, 天皇の子 (12 )|015 )の116 問3 問1 ロ 皇子を擁する勢カを倒し, 皇位をめぐる争いに勝利した。これを(13 )宮で即位し,天武天皇となった。天武天 017 皇は、天皇·皇族を中心とする皇親政治を行い,豪族を新しい身分秩序に編成する 018 の 下の史料は何とよばれるものか。 乱という。大海人皇子は,(14 史料 ーに日く,和を以て貴しと為し,杵ふること無きを宗とせよ。 二に日く,驚く三宝を敬へ。 三に日く,昭を承りては必ず謹め。 たっと ロ )の鋳造をおこない, 口間1 )を定めた。また,銭貨として(15 ために(15 律令や国史の編集事業を始めた。 天武天皇の死後,皇后の(7 )天皇が即位すると,689年には (14 令の施行,694年には (18 )京への遷都が行われた。こうして,天武·n。 (17)両天皇の時代に中央集権国家の建設事業は完成に近づいた。また,この時 代には唐初期の文化の影響を受け,自鼻文化が花開いた。 問4 みことのり ロ仏像名: 「問2 問2 下線部Oについて, IB 口作者: はくほう の 607年に派遣された遣晴使に対する答礼使として,階から派遣された人物は IC 誰か。 問1 下線部aについて,大宰府の防衛のために設けられた堤を何というか。 問2 下線部6について, 下の写真A~Cの名称をそれぞれ答えよ。 大一間 の 黒天 の 遣晴使派遣の目的を次のア~ウのうちから1つ選べ。 ア.階に臣属しない立場を認められることで, 朝鮮半島の国々に対する優位を得るため。 イ.鉄資源や製鉄技術を求めるため。 ウ,朝貢して中国皇帝から称号を得るため。 問3 下線部Cについて,派遣された留学生およ び学問僧を3人答えよ。 下線部Oについて, 右の写真の仏像名とそ の作者をそれぞれ答えよ。 問4 |S 当当

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