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日本史 高校生

徳川家の出来事A〜Fまでを年代の古い順に並ばなければいけないのですが、BFDAECの順であっていますか?教えて頂きたいです🙇🏻‍♀️

3 以下の問に答えよ。 A: 徳川家宣は、 朱子学者の(Ⅰ)と側用人の間部詮房を信任して、 政治の刷新をはかろうとした。 しかし、 徳川家宣は在職わずか3年余りで死去し、 そのあとを継いだ徳川家は満3歳であったため、 引き続き ( I )らが幕府政治を担うことになった。(I)は①長崎貿易で、 多くの金銀が流 出していたことを問題視し、これを防ぐために② 貿易額を制限した。 B:③関ヶ原の戦いで勝利したⅡは、1603年、④全大名に対する指揮権の正統性を得るための 征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府を開いた。1605年、将軍が世襲であることを諸大名に示すため、 子の(Ⅲ)に宣下を受けさせた。その後(Ⅱ)は駿府に移ったが、大御所として実権を握り続 け、大坂の陣で豊臣氏を攻め滅ぼし、その直後、大名の居城を1つに限り、⑤武家諸法度を制定して大 名をきびしく統制した。(Ⅲ)は、⑥天皇や公家が守るべき朝廷の運営などの基準を定め、娘を御 水尾天皇に入内させた。 C : 徳川宗家 (本家) がとだえると、 ⑦ 御三家の紀伊藩主であった(Ⅳ)が将軍になった。 ( N )は、29年間の在職のあいだ、諸政策を実行して②幕政の改革に取り組んだ。18世紀後半 は⑨幕藩体制にとって大きな曲がり角となった。 ⑩ 三都や城下町の町人地中心部に住む都市民衆は、零 細な棟割な側に住み、わずかな ① 貨幣収入で暮らしを支え、物価の上昇や飢饉、災害のときには、たち まち生活を破壊させた。 D : 幼少の徳川家綱を会津藩主で叔父の(V)が支えたことで、 社会秩序が安定しつつあった。 平和 が続く中で、 重要な政治課題となったのは、戦乱を待望する 12牢人や 「かぶき者」 への対策であった。 17 世紀後半には、政治の安定と経済の発展とを背景に(VI)が将軍となった。 ( V )の政治 は(VI)が(a)として支えた。 (VI)は代がわりの武家諸法度を出し、 13 幕府の統治理念 に変化があった。 また (VI)は、 1生類すべての殺生を禁じ、 捨子の保護なども命じた。 E 15 田沼意次が退いたあと、 徳川家斉の補佐として (b)に就任したのが、 白河藩主(VII)で ある。 国内外の危機がせまるのを感じて、飢饉で危機におちいった農村を復興することによって、幕府 の財政基盤を復旧し、 ⑩6 打ちこわしを受けた江戸の治安問題を解決し、 17 ロシアを中心とする 18 海外勢 力に対応するための 19 諸政策を実行していった。 IX SUPRA CRE F:徳川家は、 1635年、新たな武家諸法度を発布し、諸大名に法度の遵守を厳命した。 その中で、 大名には20国元と江戸とを1年交替で往復する制度を義務づけ、大名の妻子には江戸に住むことを強 制した。こうして()の頃までには、2幕府の職制についても整備された。 1637年、2島原 の乱後、幕府は、キリスト教に対してきびしい監視を続けていった。 問1 A~Fの文中(I) ~ (V)に入る人物名をそれぞれ漢字で答えよ。 IX 知・技 9

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日本史 高校生

黄色で囲んだ②の文章の意味が分かりません 

政期から荘園が増 や収益の豊かな国を与えられた。 とくに鳥羽上皇の時代になると,院の周辺 る。 に荘園の寄進が集中したばかりでなく, 有力貴族や大寺院への荘園の寄進も ふゆふ にゅう 増加した。また,不輪・不入の権をもつ荘園が一般化し, 不入の権の内 容も警察権の排除にまで拡大されて, 荘園の独立性が強まった。 ちぎょうこく いんぶんこく またこの頃には知行国の制度 ② や,上皇自身が国の収益を握る院分国の こくしゅ 制度が広まって, 公領は上皇や知行国主・国司の私領のようになり,院政を 支える経済的基盤となった。 そうへい 大寺院も多くの荘園を所有し,下級僧侶を憎兵として組織し、国司と争い, しんほく しん よ にょいん 神木や神輿を先頭に立てて朝廷に強訴して要求を通そうとした。 神仏の威 ● 上皇は, 近親の女性を院と同じく待遇 (女院) して大量の荘園を与えたり, 寺院に多くの荘 園を寄進したりした。 たとえば, 鳥羽上皇が皇女八条院に伝えた荘園群 (八条院領)は平安時代 ちょうこうどう だいかくじとう じみょういんとう 末に約100カ所, 後白河上皇が長講堂に寄進した荘園群 (長講堂領)は鎌倉時代初めに約90カ所 という多数にのぼり それぞれ鎌倉時代の末期には大覚寺統 持明院統 (p.120) に継承され, その経済的基盤となった。 ② 上級貴族に知行国主として一国の支配権を与え、その国からの収益を取得させる制度。知 もくだい 行国主は子弟や近親者を国守に任じ、現地には目代を派遣して国の支配をおこなったが,これ ほうろく は貴族の俸禄支給が有名無実化したため、その経済的収益を確保する目的で生み出された。 こうふくじ ③ 興福寺の僧兵は奈良法師と呼ばれ、春日神社の神木の榊をささげて京都に入って強訴し, えんりゃくじ なん やまほうし 延暦寺の僧兵は山法師と呼ばれ, 日吉神社の神輿をかついで強訴した。 興福寺・延暦寺を南 と ほくれい 都・北嶺という。鎮護国家をとなえていた大寺院のこうした行動は、法によらずに実力で争う という院政期の社会の特色をよく表わしている。 1. 院政と平氏の台頭 89

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