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開発講座の問題です 問2が分かりません ⑥にイギリスの例があって製鉄が環境破壊を招いている点が似ていたのでここが同値関係となっていて、2の歴史家を選びましたが違いました ここは関係ないんですか? あと⑥の最後の方に書いてある「このため英国の森が破壊しかけた所〜ご理解がcol... 続きを読む

第3問 次の文章を読んで左の問に答えよ。 日本の運命を変えたのは、四世紀ごろから進んでいた朝鮮半島における自然破壊で した。むろん、日本人がやったのではありません。朝鮮人がやったのです。山を掘り くずして、砂鉄を(ト)り製鉄をはじめたのです。 おそろしいばかりの自然破壊でした。 鉄の製(レン)には木炭を必要とします。わず 数トンの鉄をつくるのに、一つの山が裸になるほどの木炭を必要とします。 5 製鉄集団は、おそらく女性や子供をふくめて何百人という単位だったでしょう。 そ れらが、朝鮮の山から山へ移動して、丸裸にしてゆきました。 「むろん、そのあとに植林をするということはしなかったようです。朝鮮の山は、不 幸なことに自然の復元力がよわいのです。むろん、ギリシャ文明が去ったあとのギリ シャの自然ほどではありませんが、朝鮮の山々は乾き、山の土(ジョウ)は風に吹きと 10 ばされて、岩の層が露出するといった風景になりました。むろんこれは、 イ的想 像力でいっているので、三世紀、四世紀の朝鮮には、そのことを書いた文献はありま せん。 三、四世紀の朝鮮半島の製鉄業者たちに話をもどします。 かれらは、遊牧民が草を 求めて移動するように、森を求めて移動するひとびとでした。朝鮮の山々を裸にして 15 しまったとき、はるか南の海に、樹木の多い島々があることを知ったのです。それが、 日本でした。やがていくつものグループが海をわたって、日本にきました。五世紀 第3問 12

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国語表現の問題になっています。 食べてはいけないについて、筆者の主張が現れていると思われる一文を抜き出して記せ。 ※一文とは、句点(。)の次の文字から句点(。)までを指す。 筆者の主張の一文分かる方いらっしゃいませんか? 教えて頂けると助かります🙇🏻‍♀️

トレーニング 八〇〇字程度 生徒作文例 「食べてはいけない!』 を読むまで農薬の数や種類がそれほど豊富 だということを知らなかった。しかし、考えてみれば、私たちが日々 ロにしている食物のうち、田畑でとれるものにはほとんど農薬が使 われていると思っていいだろう。そのおかげで私たちが食べ物に困る ことなく農作物が食卓に並べられている。しかし、服部氏はその農 薬が「害虫であろうと益虫であろうと問答無用に『殺す』毒性物質 だ」という。はたして私たちは農薬に頼らない農業を選択すべきな のであろうか。 確かに、スーパーマーケットに行けば「無農薬野菜」や「低農薬 「野菜」のコーナーがあるし、人々の嗜好も含めて今や農薬は有害な ものとも思える。そのこと自体、疑う余地はないだろう。しかし、 そもそも農薬は、豊かな収穫を害虫によって阻害されてきた長い歴 史の中から、生産者の苦労を科学の力によって軽減するべく開発さ れたものであろう。当初の目的は決して否定されるべきものではあ るまい。 また、服部氏は、生産者などの危害や必要以上の散布が生態系を 壊すことを根拠としてあげているが、その因果関係は十分に実証さ れているとは言いがたい。 今や、農薬のもつ有害性や副作用は明確になってきている。しか し、だからといって全て無農薬での栽培というのは現実的ではない。 ただでさえ、日本は食糧自給率が乏しい。多くを海外からの輸入に 頼っている現状がある。こうした実情の中で、過度に農薬の有害性 を強調することは、人々の食への関心を必要以上に神経質なものとし てしまうのではないか。 必要なのは、副作用や有害性がわかってきた今、その使用法を研 究し、少しでも害の少ない農薬を開発するとともに、量や散布の仕 方を工夫して、現実に即した対応をすることであろう。 以上のように、私たちは現実に即した農業のあり方を選択すべき である。使い方をまちがえれば「害」になる農薬も「穏当」な使用 を研究し、本来の豊かな実りに役立つものにしていくことが必要で ある。 しこう はっとり O 5 5 5 8

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なぜ写真の答えになるのかがわかりません。

5 10 第三語 社会 六山崎 正和『日本文化と個人主義』 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 明治から大正の前半にかけて、日本の知的社会の構造は単純であって、ひと握りのエリートと 大多数の大衆に二分されるだけであった。もちろん、知的な階層性は経済的な階級性とは異なり、 上下の差は漸層的なものであって、かなりの程度に主観的な要素によって作り出される。経済的 な力とは違って、知的な優越性は個人の努力によって達成されやすいし、実際、日本の近代化の 過程で知的なエリート、あるいはエリートだと自認する人間の数は着実に増えて来た。しかし、 この過程を支配していたのはあくまでも二極対立的な価値観であり、一方に エリート、他方に大 衆、いいかえれば「学界」と草の根層を対置する単純な社会の構図であった。 これにたいして、大正後期に始まった知識社会の急激な膨張、いいかえれば、知的な階層性の こ州。 急速な暖味化は、ム皮肉なことに、知識人のあいだにかえって主観的な階層性の意識を増大した。 本来、エリートとは定義上、選ばれた少数者のことであるから、その数が膨張することは一 そのさい膨張したエリート階層のなかに新たな区別の意識が芽ばえ、純粋なエリートとそれに準 ずる人間を階層化しようとするのは、自然な心理の動きであろう。その結果、昭和初年の日本に 現れたのは、エリートとそれに準ずる知的な中間階層、ならびに旧来の大衆層からなる、いわば 1三層構造を持った知的社会であった。 Mどんな場合にも、社会の階層的な区別は、区別によって下積みに置かれた側によってまず鋭く 5 意識される。新たな階層化の出現を意識したのは、いうまでもなく であり、それとともに 急成長を見せた新聞、出版ジャーナリズムであった。一九一七年、ロシアに起った革命は、その なかで活躍した仮体制説な知識人、いわゆるインテリゲンチャの存在を世界に知らしめた。日本 でもこの言葉が輸入され、やがてその短縮型「インテリ」が流行語になるにつれて、これは新し い知的な中間階層がみずからを同定し、呼びならわすための恰好の用語となった。昭和初期の知 識社会は、主として学界に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあい だで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。新興のインテリの複雑な『自悔の感情 と学界人への反抗心は、昭和二年(一九二七)七月の日付を持つ、「岩波文庫」の発刊の辞にじつ にみごとに要約されている。 の真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。 、もる S かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と 美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文一 庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある(フキュウの書を少数者の書斎 と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。 ら流行の社会主義用語をちりばめながら、ここで筆者が直接の敵としているのは、「少数者の書斎8 と研究室」である。はたして、知識と美が特権階級に独占されうるものかどうか疑わしいし、そ れが物質のように奪い返せるかどうかもっと疑わしいが、ともかく、この筆者の眼にある種の知 識人が特権階級のように見えていたことは、確実である。 そして、さらに確実なことは、この将権階級が社会的にどういう地位にあるかは問わず、少な

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なぜ、写真の答えになるのかがわかりません!

10 第三調 社会 六山崎 正和『日本文化と個人主義』 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 明治から大正の前半にかけて、日本の知的社会の構造は単純であって、ひと握りのエリートと 大多数の大衆に二分されるだけであった。もちろん、知的な階層性は経済的な階級性とは異なり、 上下の差は漸層的なものであって、かなりの程度に主観的な要素によって作り出される。経済的 な力とは違って、知的な優越性は個人の努力によって達成されやすいし、実際、日本の近代化の 過程で知的なエリート、あるいはエリートだと自認する人間の数は着実に増えて来た。しかし、 この過程を支配していたのはあくまでも二極対立的な価値観であり、一方にエリート、他方に大 衆、いいかえれば「学界」と草の根層を対置する単純な社会の構図であった。 )これにたいして、大正後期に始まった知識社会の急激な膨張、いいかえれば、知的な階層性の 二州。 急速な暖味化は、“皮肉なことに、知識人のあいだにかえって主観的な階層性の意識を増大した。 本来、エリートとは定義上、選ばれた少数者のことであるから、その数が膨張することは一 そのさい膨張したエリート階層のなかに新たな区別の意識が芽ばえ、純粋なエリートとそれに準 ずる人間を階層化しようとするのは、自然な心理の動きであろう。その結果、昭和初年の日本に 現れたのは、エリートとそれに準ずる知的な中間階層、ならびに旧来の大衆層からなる、いわば 三層構造を持った知的社会であった。 Mどんな場合にも、社会の階層的な区別は、区別によって下積みに置かれた側によってまず鋭く6 意識される。新たな階層化の出現を意識したのは、いうまでもなく一 であり、それとともに 急成長を見せた新聞、出版ジャーナリズムであった。一九一七年、ロシアに起った革命は、その なかで活躍した仮体制誘な知識人、いわゆるインテリゲンチャの存在を世界に知らしめた。日本 でもこの言葉が輸入され、やがてその短縮型「インテリ」が流行語になるにつれて、これは新し い知的な中間階層がみずからを同定し、呼びならわすための恰好の用語となった。昭和初期の知 0 識社会は、主として学界に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあい だで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。新興のインテリの複雑な王自侍の感情 と学界人への反抗心は、昭和二年(一九二七)七月の日付を持つ、「岩波文庫」の発刊の辞にじつ にみごとに要約されている。 I真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。 S。 かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と 美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文 庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある(フキュウの書を少数者の書斎 と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。 5流行の社会主義用語をちりばめながら、ここで筆者が直接の敵としているのは、「少数者の書斎s と研究室」である。はたして、知識と美が特権階級に独占されうるものかどうか疑わしいし、そ れが物質のように奪い返せるかどうかもっと疑わしいが、ともかく、この筆者の眼にある種の知 識人が特権階級のように見えていたことは、確実である。 宅して、さらに確実なことは、この将権階級が社会的にどういう地位にあるかは問わず、少な

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問5,6解答根拠が全くわかりません。 教えてください!

第三講 社会 六山崎正和『日本文化と個人主義』 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 明治から大正の前半にかけて、日本の知的社会の構造は単純であって、ひと握りのエリートと 大多数の大衆に二分されるだけであった。もちろん、知的な階層性は経済的な階級性とは異なり、 上下の差は漸層的なものであって、かなりの程度に主観的な要素によって作り出される。経済的 な力とは違って、知的な優越性は個人の努力によって達成されやすいし、実際、日本の近代化の LG 過程で知的なエリート、あるいはエリートだと自認する人間の数は着実に増えて来た。しかし、 この過程を支配していたのはあくまでも二極対立的な価値観であり、一方に エリート、他方に大 衆、いいかえれば「学界」と草の根層を対置する単純な社会の構図であった。 これにたいして、大正後期に始まった知識社会の急激な膨張、いいかえれば、知的な階層性の 急速な暖味化は、“皮肉なことに、知識人のあいだにかえって主観的な階層性の意識を増大した。 本来、エリートとは定義上、選ばれた少数者のことであるから、その数が膨張することは 1_ そのさい膨張したエリート階層のなかに新たな区別の意識が芽ばえ、純粋なエリートとそれに準 ずる人間を階層化しようとするのは、自然な心理の動きであろう。その結果、昭和初年の日本に 現れたのは、エリートとそれに準ずる知的な中間階層、ならびに旧来の大衆層からなる、いわげば 1三層構造を持った知的社会であった。 mどんな場合にも、社会の階層的な区別は、区別によって下積みに置かれた側によってまず鋭く 5 意識される。新たな階層化の出現を意識したのは、いうまでもなく一 であり、それとともに N 急成長を見せた新聞、出版ジャーナリズムであった。一九一七年、ロシアに起った革命は、その一 なかで活躍した食体制誘な知識人、いわゆるインテリゲンチャの存在を世界に知らしめた。日本 でもこの言葉が輸入され、やがてその短縮型「インテリ」が流行語になるにつれて、これは新し るリの い知的な中間階層がみずからを同定し、呼びならわすための恰好の用語となった。昭和初期の知 識社会は、主として学界に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあい だで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。新興のインテリの複雑な「自侍 と学界人への反抗心は、昭和二年(一九二七)七月の日付を持つ、「岩波文庫」の発刊の辞にじつ にみごとに要約されている。 I真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。 S かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と 美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文 庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある。フキュウの書を少数者の書斎 と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。 5 流行の社会主義用語をちりばめながら、ここで筆者が直接の敵としているのは、「少数者の書斎0 と研究室」である。はたして、知識と美が特権階級に独占されうるものかどうか疑わしいし、そ れが物質のように奪い返せるかどうかもっと疑わしいが、ともかく、この筆者の眼にある種の知 職人が特権階級のように見えていたことは、確実である。 Caして、さらに確実なことは、この将権階級が社会的にどういう地位にあるかは問わず、少な

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なぜ、ハではないのでしょうか?

10 15 25 N ロN P ーU ー T 罪 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 明治から大正の前半にかけて、日本の知的社会の構造は単純であって、ひと撮りのエリートと 大多数の大衆に二分されるだけであった。もちろん、知的な階層性は経済的な階級性とは異なり 上下の差は漸層的なものであって、かなりの程度に主観的な要素によって作り出される。経済的 な力とは違って、知的な優越性は個人の努力によって達成されやすいし、実際、日本の近代化の 過程で知的なエリート、あるいはエリートだと自認する人間の数は着実に増えて来た。しかし、 LO この過程を支配していたのはあくまでも二極対立的な価値観であり、一方にエリート、他方に大」 衆、いいかえれば「学界」と草の根層を対置する単純な社会の構図であった ごれにたいして、大正後期に始まった知識社会の急激な膨張、いいかえれば、知的な階層性の ニに 急速な暖味化は、“皮肉なことに、知識人のあいだにかえって主観的な階層性の意識を増大した 本来、エリートとは定義上、選ばれた少数者のことであるから、その数が膨張することは一 1 そのさい膨張したエリート階層のなかに新たな区別の意識が芽ばえ、純粋なエリートとそれに準 ずる人間を階層化しようとするのは、自然な心理の動きであろう。その結果、昭和初年の日本に 現れたのは、エリートとそれに準ずる知的な中間階層、ならびに旧来の大衆層からなる、いわば 1三層構造を持った知的社会であった。 Mどんな場合にも、社会の階層的な区別は、区別によって下積みに置かれた側によってまず鋭く 意識される。 新たな階層化の出現を意識したのは、いうまでもなく であり、それとともに」 急成長を見せた新聞、出版ジャーナリズムであった。一九一七年、ロシアに起った革命は、その なかで活躍した食体制詞な知識人、いわゆるインテリゲンチャの存在を世界に知らしめた。日本 でもこの言葉が輸入され、やがてその短縮型「インテリ」が流行語になるにつれて、これは新し かっこう い知的な中間階層がみずからを同定し、呼びならわすための恰好の用語となった。昭和初期の知 識社会は、主として学界に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあい だで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。新興のインテリの複雑な。E自侍の感情一 と学界人への反抗心は、昭和二年(一九二七)七月の日付を持つ、「岩波文庫」の発刊の辞にじつ にみごとに要約されている。 9真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。 かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と 美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文 庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある(フキュウの書を少数者の書斎 と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。 流行の社会主義用語をちりばめながら、ここで筆者が直接の敵としているのは、「少数者の書斎 0 と研究室」である。はたして、知識と美が特権階級に独占されうるものかどうか疑わしいし、そ れが物質のように奪い返せるかどうかもっと疑わしいが、ともかく、この筆者の眼にある種の知 識人が特権階級のように見えていたことは、 が確送である。 Capして、さらに確実なことは、この将権階級が社会的にどういう地位にあるかは間わず、少な

未解決 回答数: 1