現代文
高校生
なぜ写真の答えになるのかがわかりません。
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第三語 社会
六山崎 正和『日本文化と個人主義』
次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。
明治から大正の前半にかけて、日本の知的社会の構造は単純であって、ひと握りのエリートと
大多数の大衆に二分されるだけであった。もちろん、知的な階層性は経済的な階級性とは異なり、
上下の差は漸層的なものであって、かなりの程度に主観的な要素によって作り出される。経済的
な力とは違って、知的な優越性は個人の努力によって達成されやすいし、実際、日本の近代化の
過程で知的なエリート、あるいはエリートだと自認する人間の数は着実に増えて来た。しかし、
この過程を支配していたのはあくまでも二極対立的な価値観であり、一方に エリート、他方に大
衆、いいかえれば「学界」と草の根層を対置する単純な社会の構図であった。
これにたいして、大正後期に始まった知識社会の急激な膨張、いいかえれば、知的な階層性の
こ州。
急速な暖味化は、ム皮肉なことに、知識人のあいだにかえって主観的な階層性の意識を増大した。
本来、エリートとは定義上、選ばれた少数者のことであるから、その数が膨張することは一
そのさい膨張したエリート階層のなかに新たな区別の意識が芽ばえ、純粋なエリートとそれに準
ずる人間を階層化しようとするのは、自然な心理の動きであろう。その結果、昭和初年の日本に
現れたのは、エリートとそれに準ずる知的な中間階層、ならびに旧来の大衆層からなる、いわば
1三層構造を持った知的社会であった。
Mどんな場合にも、社会の階層的な区別は、区別によって下積みに置かれた側によってまず鋭く 5
意識される。新たな階層化の出現を意識したのは、いうまでもなく
であり、それとともに
急成長を見せた新聞、出版ジャーナリズムであった。一九一七年、ロシアに起った革命は、その
なかで活躍した仮体制説な知識人、いわゆるインテリゲンチャの存在を世界に知らしめた。日本
でもこの言葉が輸入され、やがてその短縮型「インテリ」が流行語になるにつれて、これは新し
い知的な中間階層がみずからを同定し、呼びならわすための恰好の用語となった。昭和初期の知
識社会は、主として学界に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあい
だで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。新興のインテリの複雑な『自悔の感情
と学界人への反抗心は、昭和二年(一九二七)七月の日付を持つ、「岩波文庫」の発刊の辞にじつ
にみごとに要約されている。
の真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。
、もる
S
かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と
美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文一
庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある(フキュウの書を少数者の書斎
と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。
ら流行の社会主義用語をちりばめながら、ここで筆者が直接の敵としているのは、「少数者の書斎8
と研究室」である。はたして、知識と美が特権階級に独占されうるものかどうか疑わしいし、そ
れが物質のように奪い返せるかどうかもっと疑わしいが、ともかく、この筆者の眼にある種の知
識人が特権階級のように見えていたことは、確実である。
そして、さらに確実なことは、この将権階級が社会的にどういう地位にあるかは問わず、少な
55
くとも主たる知識の源泉として1
|人間だったということであろう。筆者の眼に映っていた 5
階級対立は、したがって岩波文庫を必要とする人間としない人間、いいかえれば、岩波文庫を読」
む人間とそれを作る人間の対立であった。主たる知識の源泉を翻訳としコウチュウと解説に求め
る人間と、逆にその翻訳や解説を自分の知識からあたえる人間の対立であった。もちろん最大の
皮肉は、この「発刊の辞」の筆者が表向きは知的な「民衆」の側に身を置きながら、じつは明
らかに、岩波文庫を作ってそれを啓蒙する側に属していたという事実であろう。学界人とインテ
リの相違は、必ずしも客観的な能力や知識の量の違いではなく、知識人とは何かという自己認識
の違い、ならびに知識を操作する態度の違いにもとづくものであった
(ク実際、筆者の『反抗心は半ば近く正当だったのであって、この時代、意識のうえで、「少数者の
書斎と研究室」を守るエリートがいたことは、事実であった。大学や高校に拠る学界人の大部分、
少数の「コウトウ的な文学者や芸術家のなかには、上明治一代の知識人の伝統に踏みとどまろ
うとする傾向が見られた。
a0彼らの心の拠りどころは、西洋の近代文化と東西の古典的教養であり、その誇りの根拠は、そ
れらの文化に原典を通じて触れていることであった。彼らは一、二の外国語か、漢文、あるいは
日本の古文にJツウギョウし、多くの場合、当時はまだ珍しかった外国留学の機会を持っていた。
彼ら自身は他人の翻訳に頼ることを軽蔑した。のみならず、大学の内部には一般にジャーナリズ
ムにたいする軽侮の念が高まり、研究者相互のあいだでも、新聞や商業雑誌に執筆する同僚に微
妙な反感が向けられるようになった。彼らの信じるものは時流を越えた真理であり、行動の規範
は学問研究の求めるディシプリン(規律)であって、当然、その生活態度は孤高の尊重に傾いた。
彼らの大部分は政治に無関心であるか、あるいは現実政治を軽蔑するという意味で、きわめて観
念的な反体郵主義に与していた。
Oしかし、「皮肉なことに、彼らはまさにこの点において、彼らの憧れる明治一代目のエリート
たちと違っていた。陸軍軍医総監の森鵬外、慶応大学塾頭の福沢諭吉、早稲田大学総長の大隈重一
信、東京美術学校長の岡倉天心など、一代目の知識人は現実の政治に触れることをはばからなか
った。また、夏目激石や内村鑑三や吉野作造のように、むしろジャーナリズムを重要な地盤とし
たエリートも多かった。そして、そのことと関連して、明治の先覚は多少とも専門を越えた総合m
的知識をめざしたが、昭和の学界人は、その信条において完全な専門家であった。近代化が学問
を複雑化し、個人が総合的知識を持つことが難しくなったのも事実であるが、知識人がその状況
を進んで利用したことも疑いない。大学という制度のなかの学者たちは、他人の専門に口を出す
ことを感勲に拒絶し、自分の専門にロを出す「素人」を露骨に軽蔑した。そうすることが、専門
を基盤とする大学制度を守る道でもあったし、百科全書的な先輩と同時代の素人知識人にたいし 5
て、自己の立場を鮮明にする道でもあったからである。
5点
をうめるのに最も適当な語句を、文中の語句を用い、解答欄の枠(十一字)に従っ
て記せ。
としな
原ますす側生 しょていう
seps
5
「岩波文庫」は、何の象徴であったのか。文中の語を用いて解答欄の指示に従って記せ
の象徴
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