であり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のように造型する対象ではなかったのであろう。
49言うまでもなく、水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないとい
うことについて、おそらく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。
「行雲流水」という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によっ
裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形な
きものを恐れない心の現れではなかっただろうか。
見えない水と、目に見える水。
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もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのに、もは
や水を見る必要さえないと言える。ただ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れる
ものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本人が水を鑑賞 =
する行為の極致を表す仕掛けだと言えるかもしれない。
何をもって「受動的
な態度」と言うのか。