伊勢物語 【第八十二段】
これたかのみこ
渚の院 昔、惟喬親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に、宮ありけり。年ごとの桜の花盛りに
みぎのうまのかみ
は、その宮へはなむおはしましける。その時、右馬頭なりける人を、常に率ておはしましけり。時世経て久しくなりにければ、
その人の名忘れにけり。 狩りはねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれのけり。
かたの
今狩りする交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。その木のもとに下りゐて、枝を折りてかざしに挿して、上中下、
みな歌詠みけり。 馬頭なりける人の詠め
A世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
としなむ詠みたりける。また人の歌、
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B散ればこそ いとど桜はめでたけれ憂き世に何か久しかるべき
かみなかしも