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現代社会 高校生

急ぎですこれ全部教えてください

■奈良時代 平安時代 次の問いに当てはまる語句を語群から選んで答えなさい。 けいばつ ①701年につくられた, 刑罰の決まりや政治の決まりごとなどの法律を何というか。 ちょうあん ②710年に唐の長安にならってつくられた都を何というか。 さい く ③6年ごとに戸籍をつくり, 6歳以上の人々に口分田をあたえ, 死ねば国に返させ ることを定めた制度を何というか。 こくぶんじ こくぶんにじ ④仏教の力によって国家を守ろうと, 国ごとに国分寺と国分尼寺をつくらせたのは だれか。 とうだいじ しょうそういん えいきょう ⑤ 東大寺や正倉院に代表される, 唐と仏教の影響が強い文化を何というか。 へいあんきょう ⑥794年に政治を立て直そうと都を平安京に移した天皇はだれか。 へいあん むすめ ⑦平安時代に,娘を天皇のきさきにし, その子を次の天皇に立てることで政治の実 けん ふじわら 権をにぎった藤原氏の政治を何というか。 ひえいざんえんりゃくじ てんだいしゅう そう ⑧ 比叡山延暦寺を建て、天台宗を広めた僧はだれか。 すがわらのみちざね ⑨菅原道真が894年に提言し, 停止が認められたことは何か。 2 (3) 4 (5) ⑥6 7 空海 最澄 遣唐使 国風文化 天平文化 執権政治 藤原京 8 語群 聖武天皇 桓武天皇 平城京 遣隋使 摂関政治 墾田永年私財法 班田収授法 大宝律令 9 ■武士の台頭と鎌倉時代 次の問いに当てはまる語句を語群から選んで答えなさい。 (10) だいじょう ⑩ 武士として初めて太政大臣となり,また, 栄と貿易を行った人物はだれか。 みなもとのよりとも ちょうてい しょうえん ① 源頼朝が朝廷にせまって, 荘園や公領ごとに置くことを認めさせた役職は何か。 (11) ほうじょう どくせん 1 北条氏が独占した, 将軍にかわり政治を行う役職を何というか。 ことば 13 1221 年, 後鳥羽上皇が幕府をたおそうと起こした戦いを何というか。 12) かんし きょうと 14 13 ののち、幕府が朝廷を監視するために京都に置いた役所を何というか。 やすとき ごけにん (13) 15 1232 年に, 北条泰時が定めた, 御家人に対する法律は何か。 かまくら ⑩6 鎌倉時代に始まった, 米の裏作に麦をつくる農法を何というか。 ぶんえい えき こうあん (14) ⑩ 1274 年の文永の役と1281年の弘安の役を合わせて何というか。 ⑩8 幕府が御家人の生活を救うために出した借金の帳消しを命じる命令を何というか。 げんぺい びわ 15 19 源平の戦いがえがかれ, 琵琶法師によって語り伝えられた軍記物を何というか。 語群 源氏物語 関白 六波羅探題 執権 平将門 徳政令 御成敗式目 保元の乱 承久の乱 二期作 二毛作 征夷大将軍 平清盛 倭寇 地頭 武家諸法度 元寇 源義経 平家物語 太政大臣 (16) (17) 「古代」・「中世」っていつのこと? (18) とくちょう いっぱん 社会のしくみの特徴によって時代を区切る場合, 日本の歴史では,一般的に 「古代」 やよい は弥生時代から平安時代, 「中世」は平安時代の末期から戦国時代を指している。 (19 10 です

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古文 高校生

「れ給ふ」、「られ給ふ」の「る」、「らる」が尊敬の意味にならないのは二重敬語になってしまうからですか?それとも、また別の理由ですか?

④ 可能 […(コトガ) デキル...レル・・・・ラレル] ある動作が あづまうど 吾妻人こそ、言ひつることは頼まれ、[徒然草一四一段] ⑦ 已然形 未然形 [奥の細道・松島] は口を閉ぢて眠らんとして寝られず。 意味の見分け方 「る・らる」は、原則的に、次のように伴う語によって意味を見分ける。 受身 物に襲はるる る(らる) 受身の相手を伴う。 [受身の相手に・・・ 主語はふつう、人間やそれに準ずるものになる。また、他動詞に付く場合が多い。 ② 尊敬 仰す・思す・思し召する(らる) 上記のような語を伴う。 仰せらる 主語は、身分の高い人や神仏の場合が多い。 主に中世以降の用法。 自発 知覚・心情動詞 +る(らる) 知覚・心情を表す動詞を伴う。 ⑤ うち泣かれぬ。 例 思ひやらる・思ひ嘆かる・驚かる・知る・泣かる・心ときめきせらる 可能 る(らる)+打消・反語 打消・反語の語を伴う。 ⑧ 寝ねられず 鎌倉時代以降は、打消・反語を伴わず、可能の意味を表す例も見られる。 ⑤ 受身・自発 る(らる)+ 給ふ 「給ふ」を伴う。 れ給ふ 助動詞 3 D 。 。 MURO 受身尊敬 自発可能る・らる 。 頼まれ、 られ給ふ い」「られい」という形も生した 「る」「らる」の基本の意味 「る」「らる」は、動作や作用が自然にそ うなるという自発が基本の意味であり、 受身・尊敬・可能の意味はそこから派生 した。 受身「る」「らる」 の主語 受身の場合、無生物が主語になることは 少ないが、次のような例外もある。 すずり 例硯に髪の入りて磨られたる。 [枕草子] [硯に髪の毛が入って磨られているのは不快 なものだ。」 (注意) 二重敬語との違い 「れ給ふ」「られ給ふ」の「る・らる」が 尊敬の意味になることはない。「す・さす」 に「給ふ」が付いた「せ給ふ」「させ給ふ」 などの二重敬語との違いに注意する。 参考 参考 [18

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日本史 高校生

黄色で囲んだ②の文章の意味が分かりません 

政期から荘園が増 や収益の豊かな国を与えられた。 とくに鳥羽上皇の時代になると,院の周辺 る。 に荘園の寄進が集中したばかりでなく, 有力貴族や大寺院への荘園の寄進も ふゆふ にゅう 増加した。また,不輪・不入の権をもつ荘園が一般化し, 不入の権の内 容も警察権の排除にまで拡大されて, 荘園の独立性が強まった。 ちぎょうこく いんぶんこく またこの頃には知行国の制度 ② や,上皇自身が国の収益を握る院分国の こくしゅ 制度が広まって, 公領は上皇や知行国主・国司の私領のようになり,院政を 支える経済的基盤となった。 そうへい 大寺院も多くの荘園を所有し,下級僧侶を憎兵として組織し、国司と争い, しんほく しん よ にょいん 神木や神輿を先頭に立てて朝廷に強訴して要求を通そうとした。 神仏の威 ● 上皇は, 近親の女性を院と同じく待遇 (女院) して大量の荘園を与えたり, 寺院に多くの荘 園を寄進したりした。 たとえば, 鳥羽上皇が皇女八条院に伝えた荘園群 (八条院領)は平安時代 ちょうこうどう だいかくじとう じみょういんとう 末に約100カ所, 後白河上皇が長講堂に寄進した荘園群 (長講堂領)は鎌倉時代初めに約90カ所 という多数にのぼり それぞれ鎌倉時代の末期には大覚寺統 持明院統 (p.120) に継承され, その経済的基盤となった。 ② 上級貴族に知行国主として一国の支配権を与え、その国からの収益を取得させる制度。知 もくだい 行国主は子弟や近親者を国守に任じ、現地には目代を派遣して国の支配をおこなったが,これ ほうろく は貴族の俸禄支給が有名無実化したため、その経済的収益を確保する目的で生み出された。 こうふくじ ③ 興福寺の僧兵は奈良法師と呼ばれ、春日神社の神木の榊をささげて京都に入って強訴し, えんりゃくじ なん やまほうし 延暦寺の僧兵は山法師と呼ばれ, 日吉神社の神輿をかついで強訴した。 興福寺・延暦寺を南 と ほくれい 都・北嶺という。鎮護国家をとなえていた大寺院のこうした行動は、法によらずに実力で争う という院政期の社会の特色をよく表わしている。 1. 院政と平氏の台頭 89

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日本史 高校生

カッコに入る言葉を教えてください お願いします

El 5 ふじむら 10 かさがけ 小笠懸(『勇三郎絵巻』, 東京国立博物館蔵) 笠懸, 笑迫物、流馬は騎射当物 といわれ、鎌倉時代の武士のたしなみであった。 犬追物は、 騎馬で犬を追いなが ら矢を射るもので、 笠懸は笠を的にして騎射を競った。 流鏑馬は神事など儀式の 際に行われ、的を笠懸よりも近くに立てた。 ●本領安堵 ●新恩給与形をとる 朝廷の官職への推挙 将軍と御家人 しゅじゅう けらい かまくらどの とによって、彼らと主従関係を結んで家来とした。 将軍 (鎌倉殿) の家 頼朝は、武士の所領支配を保証したり(本領安堵), せんこう しんおんきゅうよ 戦功に応じて所領をあたえたりする (新恩給与) こ ご け にん ご おん いくさ 来を特に御家人とよび, 御家人は将軍の御恩に報いるために,戦があ 5 れば戦場におもむき命がけで戦った。 ほうこう ばんやく 平時での御家人の奉公は番役で, それぞれ一定の期間、朝廷の警護 おおばんやく いえの にあたる京都大番役と幕府を警護する鎌倉番役があった。 御家人は家 ろうとう 子や郎党らの従者をひきい, 何年か (不定期)に一度京都や鎌倉に滞在 武士の生活 ●軍役 じべん かこく した。 これらの費用はすべて自弁で、 経済的にも過酷なつとめだった。 きんみつ 御恩と奉公からなる 「将軍 御家人」 の緊密な主従関係は,それまで の貴族社会にはみられなかった。 所領でつながる主従関係を基礎とし た,このような社会の制度を封建制度といい, 鎌倉幕府は封建制度に ほうけん 封建的主従関係 御家人 京都大番役 ●番役動仕鎌倉番役 もとづく初めての政権だった。 とうごく やしき 東国の武士は, 交通に便利な小高い場所に屋敷 ・関東御公事 内幕府・寺社 などの修造 不将軍と御家人の関係 しょじゅう 所従とよばれる農民を使って農業を行い, 所領の経営につとめた。 やかた (館)をかまえた。 館は板葺きの簡素な建物を中心 からぼり るい としたもので, 空堀や土塁に柵をめぐらすなど,敵を防ぐための備え かさがけ いぬおうもの があった。 どの館にも、笠懸, 流鏑馬, 犬追物の練習のため、広い馬 ➡p.65 げ にん 場があった。 武士は、ふだんは家子や郎党とともに領地に住み、下人, 補住の けつえん そう 鎌倉時代の武士は, 一族が血縁によって団結し,一族の長である惣 うじがみ 領を中心に、 武士団を組織していた。惣領は、氏神や祖先をまつり, 合戦への参加 人の しょし とうそつ ぐんやく 一族の武士 (庶子) を統率して軍役や番役をつとめた。また、祖先伝来 の本領は惣領が相続するが、 新しく開発した所領は、庶子に分割相続 異国警固番役 しんじ 流鏑馬 現在でも神事とし て各地で行われている。 ・鎌倉幕府が「封建制度 にもとづく初めての政権」 といわれるのはなぜだろうか。

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