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頭弁は思しやるあまたあれど、まづ左京が許に行きて気色見給ふに、ありしに変はることなく、
また人になれける注中の衣ともなく、うらなければ、心おちゐて思ふものから、日頃の文の心得
がたかりしも、絶え間も恨めしう思ひけるなめりとおぼえて、いとどらうたく、こまやかにうち語らひ
給ふ。女は、「注影踏むばかりのほども、逢坂こそかたらめ、文をさへ通はし給はぬ勿来の関の恨めし
う」と、にくからぬさまに注うちかすめ、怨じ聞こゆるに、 弁、「そは我こそ恨みをも聞こえめ。さし
もぼつかなからず、日ごとにものしつるを、 あさはかにも思しなして、いつもあやしげにかこちなし給ひ、
あひ思さざりつるが、かひなくのみ思ひしものを」と、まめだち給へば、女、「いとまがまがしうも」と
徒に文も通はぬ中檜垣隔つる君が心とぞ見し
移し心はげに、色ことなりけり」と言ふに、弁、「あやなくおぼめき給ひけりな。 さらば賜ひつる文あ
また所狭げにあるを、今見せ奉らん」とのたまふに、女もいぶかしう、「さらに知らず。 僅かに二度三度
ばかり」など言ひて、弁の文取り出てたり。ここら書き尽くし給ふは、ゆめなくて、三つばかりのみなり。
いとあやしう、いかなることぞと胸うち騒ぎて思ひめぐらすに、論無う使ひの心をさなく、もてたがへ
いづかた
とのもつかさ
つるなり、さても何方にかものせと、いとどやすからずおぼゆれど、すべなければ、明日その主殿司
に問ひてこそ、まことそらごとあきらめめとて、言ひさしつつ、「我はつゆ忘るることもなかりしを」と
うち泣きて、
君を思ひ長くなりぬ夢にだに見ずてほぼここだも恋ひ渡れば
常忘られず」などあはれなるさまに聞こえなし給ふ。女、
幾夜かも涙の床をはらひ侘びしをれし注⑥衣かへしてぞ寝し
月立つまでに」と言ふも、心苦しければ、「今はな思しそ。 さらに途絶えあるまじう、目離れず
「らんとこそ思へ」と慰めて、男君、
注さきくありてあひそめてし若草の妻はしきやし離れず通はん
その長浜に」と聞こえ給ふ。
またの日、ありつる文使ひの主殿司、密かなる所に呼びて問ひ給ふに、聞こえやらん方なくてゐた
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さんだち
とうのちゅうじょう
り。さすがに公達のし給ふことなどは、えも言ひやらず、この君のけはひもわづらはしう、 まめやかに
びあへり。弁、あらはにも言はねど、 やうやう公達のしわざなりと心得給ひ、頭中将こそかかるをこ
の振る舞ひはせめ、異人は所置くやうもありなんと、推し当てに思ひ寄るに、妬きこと限りなし。やが
て頭中将の方に、文書き給ふ。
ことひと
「秋風の日に日に通ふ雁が音を君が使ひと我が思はなくに
いと世づかぬ御心なん珍しう」とあり。頭中将いぶかしう見給ひけるが、やがて心得給ひ、侍従・少将
などの注さかしらにせしことをほの知りて、我に思ひ寄りつるなめりと、をかしきものから、わづら
はしうて、
「おぼつかな夕霧わたるみそらには通はん雁の声も絶えつる
いとあやしう、さらにいかなることとも思ひ給へ寄られ「侍らずなん」と聞こえ給ふ。
注
また人 他の人
②中の衣ここでは、打ち解けない心の意
③影踏むばかりのほども、逢坂こそかたらめ、文をさへ通はし給はぬ勿来の関の恨めしう
訪れることは難しいだろうが、手紙すらくださらないのは恨めしくの意
4うちかすめ それとなく言い
⑤ここだもたくさん
⑥衣かへしてぞ寝し衣を裏返しにして寝ると恋人の夢が見られるという俗信を踏まえた表現
⑦77さきくありて幸せなことに
⑧はしきやしいとおしいなあ
その長浜 ここでは、これからずっとの意
さかしらにここでは、悪ふざけての意