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現代文 高校生

高3論理国語「擬似群衆の時代」についての質問です。 「私たちが生きる都市とは、この空間との絶え間のないイメージ交換によって成立している。」という文が理解出来ません。 学校の授業では「どこにも場所を持たないが、あらゆる空間に存在する現在の群衆を凌駕する疑似的な群衆とコミュニ... 続きを読む

その 23 その一つは、擬似群衆の増大と呼ぶことができるだろう。 インターネット上に形成され ている、さまざまなコミュニティを想像するとわかりやすいかもしれない。 つぶやきのよ うな短い言葉を投稿し合うことで発生する群衆もあれば、オンラインゲームのようにアク ションの共有によって形成されている群衆もある。あるいは登録している数が数百万とい 仮想の都市。 すでに各国の企業が出資しているばかりでなく、その仮想都市上にギャラ リーや美術館をオープンするアーティストも出てきている。 こうした実空間では互いに隔離されているのに、情報空間では互いに影響を与えられ 群衆の時代 30 桜 *** * 210 具体的な関係をもっている擬似的な群衆が、 実在の群衆を凌駕してしまうという現実が ある。これはお茶の間でテレビの前に座っている間に形成されている、視聴者という名の 群衆とは明らかに異なる性格のものだ。それは物理的な建築を必要としない、新しい都市 であり、どこにも場所をもたないが、あらゆるところに存在しているとも言える空間であ る。私たちが生きる都市は、この空間との絶え間のないイメージ交換によって成立して いる。 擬似群のいる仮想空間 もう一つは、非決定性の増大と仮に呼ぶことができるだろう。 かつてなかったほどの多 くの情報チャンネルをもった個人は、意思決定を先延ばしにする傾向がある。それは必 5 * 語句 旗印 通の関心をもちメッセー ジのやりとりを行う人々 の集まりの意。 1414 オンラインゲーム on- linegame (英語) インター ネットなどのネットワー クを経由して行うゲーム の一種。 …実物に似せているが、 実物ではないこと。 を与え合う

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論理国語「擬似群衆の時代」に関する質問です。 文中の表現でわからない部分があるので、説明して頂きたいです。 「ひと頃透明性の高い建築」 「建築そのものを消し去り、流動する映像体としての建築物として存在する」 「ピクチャープラネット」 どなたか説明をお願いいたします...!!!

204 ■擬似群衆の時代 ① 街角で見かける大型スクリーン、いわゆる街頭ビジョンが新宿駅東口に現れたのは、 一九八〇年代の初めだった。ビルの壁面に映し出される映像は、当初白熱電球によるもの だったが、それでも東口駅前に群衆が絶えなかったのは、万博などの催し以外で本格的に 設置された最初の例のひとつだったからだろう。巨大白黒テレビという趣のスクリーンを、 すぐにアートとして取り入れたのがビデオアーティストのビル・ヴィオラだったことはよ く知られている。 4 それから三十年近く経過した現在、私たちの都市にはさらに大型のスクリーンが氾濫す ることになった。例えばマンハッタンのタイムズスクエア周辺のビルは、その壁面のほと んどがスクリーンと化している。そこではケーブルテレビ局が建物全体を覆う曲面スク リーンに四六時中ニュースを流しており、広場の反対側では同じように広告が流されてい みなと ちひろ 港千尋 5 10 参照 と。 tan 現代社会を読み解くため に6→400ページ 新宿駅東口 東京都新宿 区のターミナル駅の東側 出口。 2万博 万国博覧会のこ 3 ビル・ヴィオラ Bill Viola 一九五一年~。ニュー ヨークの生まれ。 4マンハッタン Manhat- アメリカ合衆国、 ニューヨーク市の中心を なす区の一つ。 これだけの大きさになると建物に画面が取り付けられているというより、画面の一部 が建物になっていると言ったほうが近いかもしれない。 こんにち 建築物が映像装置と一体化する現状は、おそらく今日の建築の方向性と矛盾するもので はないだろう。設計段階ですでにコンピューター・グラフィックスとして映像化される建 築は、紙に描かれていた時代とは大きく異なる様相をしている。ひと頃透明性の高い建築 が流行したのもつかの間、複雑な構造計算が可能な高速演算装置のおかげで、新しい建築 はますます映像のような自由度をもち、私たちを驚かせる。 そこでは二次元と三次元が相 互に浸透し合い、ある場合には建物そのものを消し去り、流動する映像体としての構築物 擬似群衆の時代 20 タイムズスクエアの夜景 5 5高速演算装置 コンピューターのこと。 問① ここでいう「二次元」 「三次元」とはそれぞれ 何か。

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5️⃣の言ってることが理解出来ません💦 どうしてオノズカラシカリとは作為が無いことになるのでしょうか?むしろあると思うのですが、、

2ndステップ 論理 たかし t うちやま 日本人にとっての自然とは 5 理然 日本人はなぜキツネに 内山 館 テ 筆者が改めて考察している事柄をつかも だまされなくなったのか 攻略のプロセス1・2を通して、《日本人の自然》を《再考察の対象となる事柄をおさえ》たうえで読み取ろう。 日本の人々にとって自然とは、客観的な、あるいは人間の外にある自然体系のことではなかった。それ は自分自身が選っていく場所でもあり、自然に帰りたいという祈りをとおしてつかみとられていくもので もあった。とすると、その自然とはどのようなものであったのか。 すでによく知られているように、かつての日本では自然はジネンと発音されていた。 シゼンという発音 が一般的になったのは、明治時代の後半に入ってからである。英語のネイチャー、 フランス語のナチュー 5 ルを日本語にするためにシゼンが使われるようになった。その意味でシゼンは外来語の訳語である。 ジネンはオノズカラ、あるいはオノズカラシカリという意味の言葉である。今日でも私たちは「自然にそ うなった」とか「自然のなりゆき」という表現を使うが、これがジネンと読んでいた時代の意味の名残だと思 えばよい。 このように見ていくと、自然に帰りたいという人々の伝統的な思いは、シゼンに帰るということより、10 ジネンに帰る、つまりオノズカラの世界に帰りたいという思いだったことがわかってくる。 オノズカラの ままに生きたい、ということである。 自然(ジネン)訓で読んだときのオノズカラシカリ(ナリ)とは作為がない、ということであろう。有意 ではない、と言ってもよい。 自我のはたらきから生ずる意図がない、あるいは「我(われ)」がない、と表現 することもできる。 (注1) そしてこの気持ちにも仏教が言葉を与えた。人間は自我があるから「我(われ)」にこだわる。 我執のある (注2) ④_ のが人間である。だから「我(われ)」の欲望をもち、「我」を主張して争い、悲しむべき凡夫に堕ちていく。 煩悩は、「我」をもつことそのもののなかにある。だから煩悩を捨てるとは「我」を捨てることだ。そして「我」 を捨てたあり方とは、すべてがオノズカラのままに生きることだ。 オノズカラのままに生きることによっ (注4) (注3) ゆる て、人々を救う。すべての人を。ここで発想は大乗仏教と結ばれる。 もっとも、このように見ていくと、 ジネンという言葉をシゼンと読んだうえで、ネイチャーやナチュー ルの訳語にしたのはかなりダトウだったということがわかる。なぜなら最もジネンなものは自然(シゼン) だからである。自然(シゼン)はすべてがオノズカラのなかに存在している。 シゼンとジネンは同じではな 8. テーマ wwwww... 5

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【現代文】「自由」の本当の意味 イが正答なのですが、なぜウは間違いなのでしょうか? 「コミュニティが共同体として意思決定をなす際に前提となる一定の方 法」ってあってるとおもったんですけど、、、

823字 制限時間 8分 きよかず 9 「自由」の意味 鷲田清一 制限時間内に、次の文章を読んで後の問いに答えなさい。 せきがく たなかみちたろう あら 古代ギリシャ哲学の碩学、田中美知太郎は、個人の自由は、法の前の平等という政治的な自由がしっかり定着していてこそ 可能なのであって、そういう公的な自由のないところに私的な自由もないとしたうえで、次のように言う。「自由というもの 法の制約なしに追求する、いわゆる民主政治の末期になると、突然自由と正反対の変化が現われてくる」と。 何をしてもい いということは、何をしてもおなじということであり、どのみちいっしょというこの無関心(インディファレンス=無差異) によって、人の生き方は「気まぐれ」に、社会は「原則のない」ものに、なるというのである。 くり返すと、自由は、成員たちがそれぞれに別個の存在として認めあうコミュニティの存在を前提とする。そのコミュニティ はしかし、けっして一致団結を求めるものではなく、一定の法の下でそれぞれの考えを闘わせ、調整しつつ、共同体としての 意志決定をなす。そういう動的な装置として、「護らなければいつ失われてしまうかわからないようなもの」である。だから こそ、たえず入念にチェックし、また手入れと手直しをなす必要がある。 まも 17世紀フランスの思想家、パスカルが「正義」について書きとめた文章を読んでいると、「自由」のほんとうの意味があぶ。 り出されてくる。パスカルは、力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的だとしたうえで、残念ながら、正しい者に 力がなければ、強い者に従わざるをえないという。それはやむをえない 「必然」だと。 これを裏返していえば、弱い者に従う というのが、「必然」の反対、つまりは「自由」の本義だということになる。 英語のリバティを辞書で引くと、たいていの場合、「気前のよさ」が第一の意味として出てくる。 弱さに従う自由とは、ま さに気前のよさのことである。そしてこの気前のよさとは、じぶんの自由より先にまずは他者の自由を擁護するということで ある。そういう相互扶助の精神が充満しているところにしか、おそらくほんとうの自由はない。 *碩学・・・修めた学問が広く深いこと、またその人。 /2 m

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サイボーグとクローン人間という作品の意味段落分けの仕方が分からないです。本文全てを載せてあります。解説お願いします!

サイボーグとクローン人間 山崎 正和 テレビの教養番組で、アメリカのロボット研究の現状を見た。映像による報告はさすがに生々しく、 改めて文 明の行方について考えさせられた。 研究の一つの方向は、ロボットの精神的な能力を拡張し、判断力や感情さえ持った機械を造ろうという試みで ある。 外形も二足歩行の人体に似せ、顔の表情まで再現する技術が磨かれている。 脳の働きをするコンピュータ がさらに発達すれば、ロボットが人間と手をとって街を歩く日も遠くないという。 もう一つの方向は、人間の身体の一部を機械で置き換え、脳と機械を直結するサイボーグを造ろうという動き である。 これはすでに身体障害者の補助器具として実現していて、 肩の筋肉の指令を受けて動く精妙な義手が発 明されている。 光を感受するチップで失われた視力を回復させたり、衰えた脳の中に記憶装置を埋め込む研究も 行われている。 この努力の究極の姿は、やがて人体から脳だけをそのままに残し、四肢や内臓のすべてを機械で 補強する、人間改造計画に行き着くことになるらしい。 見ていて不思議だったのは、現場の研究者も評論家もこうした研究にきわめて楽天的だということである。 ク ローン人間の研究にはあれほどの嫌悪を示し、 大統領の禁止勧告まで生んだこの国の反応とは対照的だというほ かはない。 クローン人間を忌避させているのは、人間を神の被造物と見るキリスト教の思想だろうが、 その禁忌 が機械的な人間の製造、あるいは改造には及ばないことが、印象深いのである。 合理的に考えれば、 クローン人間の誕生はおよそ非人間的な事件ではない。 それは子が親と同一の遺伝子を持 って生まれることであるが、同一の遺伝子の共有は必ずしも個性の否定にはつながらない。人間の個性は環境や 教育に左右されるところが多く、遺伝子だけで決定されないことは、自然の一卵性双生児を見れば明らかだろう。 さらにクローン人間は人造人間ではなく、卵細胞と体細胞、それに子宮を提供する人間の親がいることを忘れて はなるまい。 そこには当然、家庭が生まれ、親子の愛や葛藤も芽生えるはずであって、子どもが感情の砂漠の中 で育つ心配は少ないのである。 しかもクローン技術が人間に適用される場合、 それが優生学的改良に直結する懸念もかなり薄い。 ある能力を 持った遺伝子が複製されても、能力が強化される理由はなく、それがそのまま子どもに現れるという保証もない。 そこには再び教育の手が加わる必要があるはずだが、その過程で子どもが自我に目覚め、先天的な素質を裏切る 可能性もあるからである。 これに比べると、ロボットやサイボーグははるかに人間の恣意に従いやすく、特定の価値観や世界観の奴隷に なる危険が高い。 肉体の腕よりも強い義手は、 強いことはよいことだという思想の実現であり、より多く環境を 支配したいという無意識の願望の反映だといえる。 脳内に記憶装置を埋め込めば、思い出も忘却も意志の力で操 作することになり、人間は自分の過去すら自分で構築することになる。 クローン技術は生命の法則に対しては受動的であって、細胞核を入れ替えた後の過程に手を出すことはできな い。だが、身体を機械で置き換える技術はどこまでも能動的であり、細部まで人間の思うとおりに造り上げてし まう。しかも注意すべきことは、そうして造り上げた身体はやがて逆転して心に影響を及ぼし、人間の考え方、 生き方を思いがけぬものに変化させるということである。 人間の心がいかに身体の影響を受け、 身体と一体になって生きているかは、毎日の生活の中で実感することが できる。 病気になれば悲観的になり、運動能力が高まれば世界を見下すような気分になる。 これまでも身体の延 長として道具を使いこなし、 機械を発達させたことで人類はどれだけ傲慢になったことだろうか。 もし将来、自 分の身体そのものを機械化して数倍の力を持ち、あるいは人体に似た機械を召し使いにできたら、 人間は自分を 神か超人のように思いなすのではないだろうか。 それが倫理的によいとか悪いとか、今日の文明の中で即断することはできない。 身体が機械になり心が神にな れば、そのときは文明の全体が変わっていて、倫理のものさしも変わっているかもしれない。 しかし確かなこと はこの変化は深刻であり、 二十世紀までの文明を終わらせるおそれさえあるということである。 興味深いという より恐ろしいのは、 現代人がその可能性を十分に自覚しておらず、その無自覚がクローン人間には厳しく、サイ ボーグには甘い価値観のよじれに現れていることなのである。 紛れもなく、サイボーグ肯定の思想の背後にあるのは、近代の脳中心の人間観である。 もっといえば、心と身 体を二つに分け、心は脳に宿っていると考える先入観である。 実は二十世紀後半の哲学はこれに疑問を投げかけ、 心と身体の一体性、相互作用を重視するようになった。 しかし、科学者を含めて大多数の現代人はまだこの二元 論を信じていて、身体を取り替えても心の同一性は守れると感じている。加えて心は脳の専有物だという、 古い 常識から逃れられないでいるのである。 その上に大きいのは、現代人が個人の福祉を絶対視し、現に生きている人の幸福を至上命令と考えていること である。 障害者や高齢者に補助器具を提供し、 身体能力を回復することは正義だという世論を、現代人は疑うこ とはできない。現にサイボーグはそういう善意から研究され始めているのであって、 そうである限りこの研究を 現代文明は非難することができない。 一方、 まだ生まれていない生命、現に生きていない個人を生もうというク ローン技術には、当然この世論の追い風がないのである。 だが困ったことに、身体能力の回復から改善までの道はほんの一歩しかない。 誰しも自分の身体を十分だとは 思っておらず、 十分にしたいと願っているものの、何が十分であるかは誰も知らない。ただ人並みに生きたいと いうつつましい願いが、とかく人並みを超える競争を招くのであって、そのことは今日の消費生活を見れば明ら かだろう。たぶんサイボーグは二十一世紀の「超人」を生むのだろうが、それはニーチェの反俗思想ではなく、 平 的生活を求める庶民のいじらしい願望がもたらすことになりそうなのである。 こんなことを考えながら、私はべつに警世論を張っているつもりはない。 いつの時代にも文明は変わるもの であるし、それも合理的な「進歩」とは無関係に変化するものだろう。 ただおもしろいと思うのは、文明を変える ものが必ずしも冒険的な好奇心ではなく、ある時代に最も常識的な、社会の通念でありうるという逆説である。 人々が「危険」な好奇心を警戒しているうちに、ひそかに安全な良識がそれ自体の足もとを隠してしまう。それが 人間の悲しさというべきか、それこそが尽きない魅力の源泉だというべきだろうか。

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