学年

教科

質問の種類

現代文 高校生

全部分からないので教えてください💦

手の変幻 清岡卓行 第一段落 ミロのビーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失 っていなければならなかったのだと、僕は、ふと不思議な思いにとらわれたことがあ る。つまり、そこには、美術作品の運命という、制作者のあずかり知らぬ何物かも、 微妙な協力をしているように思われてならなかったのである。 パロス産の大理石でできている彼女は、十九世紀の初めごろ、メロス島でそこの農 民により、思いがけなく発掘され、フランス人に買い取られて、パリのルーブル美術 館に運ばれたと言われている。そのとき彼女は、その両腕を、故郷であるギリシアの 海陸のどこか、いわば生臭い秘密の場所にうまく忘れてきたのであった。 いや、も っと的確に言うならば、彼女はその両腕を、自分の美しさのために、無意識的に隠し できたのであった。よりよく国境を渡っていくために、そしてまた、よりよく時代を 超えていくために。このことは、僕に、特殊から普遍への巧まざる跳躍であるように も思われるし、また、部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄である ようにも思われる。 僕はここで、逆説を弄しようとしているのではない。これは、僕の実感なのだ。 ミ ロのビーナスは、言うまでもなく、高雅と豊満の驚くべき合致を示しているところの、 いわば美というものの一つの典型であり、 その顔にしろ、その胸から腹にかけてのう ねりにしろ、あるいはその背中の広がりにしろ、どこを見つめていても、ほとんど飽 きさせることのない均整の魔が、そこにはたたえられている。しかも、それらに比較 して、ふと気づくならば、失われた両腕は、ある捉えがたい神秘的な雰囲気、いわば 生命の多様な可能性の夢を、深々とたたえているのである。つまり、そこでは、大理 石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示 という、不思議に心象的な表現が、思いがけなくもたらされたのである。それは、た しかに、半ばは偶然の生み出したものであろうが、なんという微妙な全体性への羽ば たきであることだろうか。 その雰囲気に、一度でも引きずり込まれたことがある人間 は、そこに具体的な二本の腕が復活することを、ひそかに恐れるにちがいない。たと え、それがどんなに見事な二本の腕であるとしても。 図解 ●要点整理(箇条書きで)

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

高3論理国語「擬似群衆の時代」についての質問です。 「私たちが生きる都市とは、この空間との絶え間のないイメージ交換によって成立している。」という文が理解出来ません。 学校の授業では「どこにも場所を持たないが、あらゆる空間に存在する現在の群衆を凌駕する疑似的な群衆とコミュニ... 続きを読む

その 23 その一つは、擬似群衆の増大と呼ぶことができるだろう。 インターネット上に形成され ている、さまざまなコミュニティを想像するとわかりやすいかもしれない。 つぶやきのよ うな短い言葉を投稿し合うことで発生する群衆もあれば、オンラインゲームのようにアク ションの共有によって形成されている群衆もある。あるいは登録している数が数百万とい 仮想の都市。 すでに各国の企業が出資しているばかりでなく、その仮想都市上にギャラ リーや美術館をオープンするアーティストも出てきている。 こうした実空間では互いに隔離されているのに、情報空間では互いに影響を与えられ 群衆の時代 30 桜 *** * 210 具体的な関係をもっている擬似的な群衆が、 実在の群衆を凌駕してしまうという現実が ある。これはお茶の間でテレビの前に座っている間に形成されている、視聴者という名の 群衆とは明らかに異なる性格のものだ。それは物理的な建築を必要としない、新しい都市 であり、どこにも場所をもたないが、あらゆるところに存在しているとも言える空間であ る。私たちが生きる都市は、この空間との絶え間のないイメージ交換によって成立して いる。 擬似群のいる仮想空間 もう一つは、非決定性の増大と仮に呼ぶことができるだろう。 かつてなかったほどの多 くの情報チャンネルをもった個人は、意思決定を先延ばしにする傾向がある。それは必 5 * 語句 旗印 通の関心をもちメッセー ジのやりとりを行う人々 の集まりの意。 1414 オンラインゲーム on- linegame (英語) インター ネットなどのネットワー クを経由して行うゲーム の一種。 …実物に似せているが、 実物ではないこと。 を与え合う

解決済み 回答数: 1
現代文 高校生

問3「具体的な事物を指す言葉は抽象性がないということ」 これは自分の回答なのですが、どういう考えでやれば正解の解答にたどり着くのでしょうか? この回答と正解の回答で迷ったとのですが、なぜ自分の回答はダメなのでしょうか?

牧の和 ない。 種類に応じて「汐」 2 木、ウシなどのことばが、われわれの社会ではあまりに普通なことばであるか ら、これらの事実にはわれわれは非常に珍しいこととして気をひかれる。かれら には物事を抽象する能力が欠けている ショウコだとして、これらのことがもち 出されたりしたことがあって、よく知られた未開社会の言語現象である。しかし この方は全く誤りであって、いかに具体的な事物を指すことばであっても、抽象 性がないということはない。 A 木やウシにあたることばと、個々の種類の木 やウシだけを指すことばとの差は小さくないが、白いウシだけを指すことばはや はり白いウシの全部を総称している。その意味で、やはり一般性の意味を担うこ とばである。そういうことばを使って話すかれらは、すでに頭の中には抽象の意 味世界をもっているのである。そのことはともかく、われわれはこれらの事実に 55 よって、 O というのはウシ一般を意味することばがなくて、白 LO

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

この技術と言うところが分かりませ。 教科書のどこを見れば分かりますか? 教えてください🙇‍♀️

た か。 そして今現在、自分と相手が立つこの状況はどういう「場」を形成しているのか。そ うしたことを読み、その上に立って、発話を行うのである。これは非常に重要な言語的技 術であるが、日本人は他の外国人たちよりもその技術に長けているのではないだろうか。 だが、私の考えでは、実は、日本人が研ぎ澄ませてきたこの技術こそが、日本人の「非論 理性」と呼ばれてしまう特質を生み出しもしているのである。 すでに述べたように、「論理」とは言葉の意味の連関性において成立するものにほかな らない。それゆえ、自分が発語したある言葉と他の言葉との連関性を明確に提示しないよ な発話は、非論理的と言われることになる。話題が脈絡なくコロコロ変わるとか、ある から次の話への飛躍が大きい、等々。あるいはまた一つの文の中でもその連関性が明確 ない場合には非論理的と言われる。 さて、なぜ日本人はそのような意味において「非論 = のだ。」と言われてしまうのだろうか。それは、コミュニケーションにおいて、連関性 相手に委ねるからだと思われる。発信する 5 2

解決済み 回答数: 1
現代文 高校生

演繹的な推論のの答え教えて貰いたいです🙇🏻‍♀️՞

都市がもつ市場的な行害を 3 交通のネットワークが都市をゾーンへと分割したために、権力支配は停滞し、経済効率は低下することとなった 4 時間は標準時を、空間は地図を基準とした社会的な指標となり、組織や地域を統合して都市を変貌させていった 5 情報化による統治にともなって都市開発が進められ、都市内部で労働や教育を管理する指標が多様化していった 七傍線部C 演繹的な推論 とあるが、その具体例として最も適当なものを次の選択肢の中から一つ選び、その番号を なさい。 「この小説の主人公は友人に嫉妬心を強く抱いているので、後の展開では報復に出て自分の恨みを晴らすだろう」 2 「この絵の画家は当時の社会情勢に反発していたので、絵に描かれた自然は作者の逃避願望を反映したものだろう 3 「この小説の作者は幼少時に戦争を経験しているので、その体験が影響して平和運動に力を注いでいたのだろう」 4 「この絵には繊細な色や筆遣いが認められるので、描いた画家はきっと写実的な手法を好んで使っていたのだろう」 5 「この小説の作者はどの作品にも耽美的な文体を用いているので、今後も情緒的な作風の小説を発表するだろう」

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

この暇と退屈の倫理学の問題が考えれば考えるほど分からなくなってしまったので、解説、解答してくだされば嬉しいです!お手数おかけしますがよろしくお願い致します🙇

R (H M 青 Jeg いるのである。 は社会主義革命の到来後の社会 以外の何に向かうのか。 に向かうのだろう。 余裕を得 しよう。そのときに私たちけ の講演 「民衆の芸術」で、 の盗人のように突然やってく。 モリスは、もしかしたら 起こそうかと考えている。 おもしろいのは、社会 だろうか。 者、ウィリアム・モリ 理学の試みは、 いかに生きるべ 殿の中で退屈し 国や社会が豊かになれば、そこに生きる人たちには余裕が生まれる。その余裕には少なくとも 一つ目はもちろん金銭的な余裕だ。人は生きていくのに必要な分を超えた量の金銭を手に入れ る。稼いだ金銭を全て生存のために使いきることはなくなるだろう。 二つの意味がある。 もう一つは時間的な余裕である。社会が富んでいくと、人は生きていくための労働に全ての時 間を割く必要がなくなる。 そして、何もしなくてもよい時間、すなわち暇を得る。 では、続いてこんなふうに考えてみよう。富んだ国の人たちはその余裕を何に使ってきたのだ ろうか。そして何に使っているのだろうか。 「富むまでは願いつつもかなわなかった自分の好きなことをしている。」という答えが返って きそうである。確かにそうだ。金銭的・時間的な余裕がない生活というのは、あらゆる活動が生 存のために行われる、そういった生活のことだろう。生存に役立つ以外のことはほとんどできな い。ならば、余裕のある生活が送れるようになった人たちは、その余裕を使って、それまでは願 いつつもかなわなかった何か好きなことをしていると、そのように考えるのは当然だ。 ならば今度はこんなふうに問うてみよう。その「好きなこと」とは何か。 やりたくてもできな かったこととはいったい何だったのか。今それなりに余裕のある国・社会に生きている人たちは、 その余裕を使って何をしているのだろうか。 「豊かな社会」、すなわち、余裕のある社会においては、確かにその余裕は余裕を獲得した 人々の「好きなこと」のために使われている。しかし、その「好きなこと」とは、願いつつもか なわなかったことではない。 問題はこうなる。「そもそも私たちは、余裕を得たあかつきにかなえたい何かなど持ってい! たのか。 少し視野を広げてみよう。 二十世紀の資本主義の特徴の一つは、"文化産業とよばれる領域の巨大化にある。 二十世紀の資 本主義は新しい経済活動の領域として文化を発見した。 もちろん文化や芸術はそれまでも経済と切り離せないものだった。芸術家だって霞を食って生 きているわけではないのだから、貴族から依頼を受けて肖像画を描いたり、曲を作ったりしてい た。芸術が経済から特別に独立していたということはない。 けれども二十世紀には、広く文化という領域が大衆に向かって開かれるとともに、大衆向けの 作品を操作的に作りだして大量に消費させ、利益を得るという手法が確立された。そうした手法 に基づいて利益を上げる産業を文化産業とよぶ。 「好きなこと」はもはや願いつつもかなわなかったことではない。それどころか、そんな願い なこと」を与えてもらっているのだから。 があったかどうかも疑わしい。 願いをかなえる余裕を手にした人々が、今度は文化産業に「好き 分の好きなことが何なのか分からない。 資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だ が、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自 そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提

回答募集中 回答数: 0
1/29