現代文
高校生

この暇と退屈の倫理学の問題が考えれば考えるほど分からなくなってしまったので、解説、解答してくだされば嬉しいです!お手数おかけしますがよろしくお願い致します🙇

R (H M 青 Jeg いるのである。 は社会主義革命の到来後の社会 以外の何に向かうのか。 に向かうのだろう。 余裕を得 しよう。そのときに私たちけ の講演 「民衆の芸術」で、 の盗人のように突然やってく。 モリスは、もしかしたら 起こそうかと考えている。 おもしろいのは、社会 だろうか。 者、ウィリアム・モリ 理学の試みは、 いかに生きるべ 殿の中で退屈し 国や社会が豊かになれば、そこに生きる人たちには余裕が生まれる。その余裕には少なくとも 一つ目はもちろん金銭的な余裕だ。人は生きていくのに必要な分を超えた量の金銭を手に入れ る。稼いだ金銭を全て生存のために使いきることはなくなるだろう。 二つの意味がある。 もう一つは時間的な余裕である。社会が富んでいくと、人は生きていくための労働に全ての時 間を割く必要がなくなる。 そして、何もしなくてもよい時間、すなわち暇を得る。 では、続いてこんなふうに考えてみよう。富んだ国の人たちはその余裕を何に使ってきたのだ ろうか。そして何に使っているのだろうか。 「富むまでは願いつつもかなわなかった自分の好きなことをしている。」という答えが返って きそうである。確かにそうだ。金銭的・時間的な余裕がない生活というのは、あらゆる活動が生 存のために行われる、そういった生活のことだろう。生存に役立つ以外のことはほとんどできな い。ならば、余裕のある生活が送れるようになった人たちは、その余裕を使って、それまでは願 いつつもかなわなかった何か好きなことをしていると、そのように考えるのは当然だ。 ならば今度はこんなふうに問うてみよう。その「好きなこと」とは何か。 やりたくてもできな かったこととはいったい何だったのか。今それなりに余裕のある国・社会に生きている人たちは、 その余裕を使って何をしているのだろうか。 「豊かな社会」、すなわち、余裕のある社会においては、確かにその余裕は余裕を獲得した 人々の「好きなこと」のために使われている。しかし、その「好きなこと」とは、願いつつもか なわなかったことではない。 問題はこうなる。「そもそも私たちは、余裕を得たあかつきにかなえたい何かなど持ってい! たのか。 少し視野を広げてみよう。 二十世紀の資本主義の特徴の一つは、"文化産業とよばれる領域の巨大化にある。 二十世紀の資 本主義は新しい経済活動の領域として文化を発見した。 もちろん文化や芸術はそれまでも経済と切り離せないものだった。芸術家だって霞を食って生 きているわけではないのだから、貴族から依頼を受けて肖像画を描いたり、曲を作ったりしてい た。芸術が経済から特別に独立していたということはない。 けれども二十世紀には、広く文化という領域が大衆に向かって開かれるとともに、大衆向けの 作品を操作的に作りだして大量に消費させ、利益を得るという手法が確立された。そうした手法 に基づいて利益を上げる産業を文化産業とよぶ。 「好きなこと」はもはや願いつつもかなわなかったことではない。それどころか、そんな願い なこと」を与えてもらっているのだから。 があったかどうかも疑わしい。 願いをかなえる余裕を手にした人々が、今度は文化産業に「好き 分の好きなことが何なのか分からない。 資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だ が、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自 そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提
である。 こうして、戦の中でいかに生き のだろうか。 なぜ人は中で のままではの中で退屈してしま なぜ眼は搾取されるのだろうか インターネットが普及した現在、 れていると盛んに言われた。 今で そこに資本主義がつけ込む。 文 よいのか分からない。 何が楽しい / 資本主義の全面展開によって、 える余裕を手にした人々が、今度は 「好きなこと」はもはや願いつこ 利益を得るという手法が確立された けれども二十世紀には、広く文 依頼を受けて肖像画を描いたり、 もちろん文化や芸術はそれまで 二十世紀の資本主義の特徴の一 少し視野を広げてみよう。 問題はこうなる。 そもそも私 しかし、その「好きなこと」とは 7 「豊かな社会」、すなわち、余 それなりに余裕のある国・社会に ならば今度はこんなふうに問う きなことをしていると、そのよう 間的な余裕がない生活というのは 「富むまでは願いつつもかなか 4では、続いてこんなふうに考 なくてもよい時間、すなわち暇・ もう一つは時間的な余裕であ <一つ目はもちろん金銭的な余 考えるのか 八暇と退屈 では、む 供する。かつては労働者の労働力が搾 取されていると盛んに 言われた。今 し ろ労働者の 暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネ ットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。 なぜ暇は搾取されるのだろうか。それは人が退屈することを嫌うからである。 人は暇を得たが、 暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇の中で退屈してしまう。だから、与えられ た楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。 では、どうすればよいのだろうか。 なぜ人は暇の中で退屈してしまうのだろうか。そもそも退屈とは何か。 こうして、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いが現れる。 〈暇と退屈の倫理学〉が問いたいのは「この問いである。 〈暇と退屈の倫理学〉の試みは、決して孤独な試みではない。同じような問いを発した思想家 がかつて存在した。時は十九世紀後半。イギリスの社会主義者、ウィリアム・モリスがその人だ。 モリスが実におもしろいのは、社会主義者であるにもかかわらず、革命志向の他の社会主義者 たちとは少し考えが違うことだ。彼らはどうやって革命を起こそうかと考えている。いつ、どう やって、労働者たちと蜂起するか。それで頭の中はいっぱいだ。 それに対しモリスは、もしかしたら明日革命が起こってしまうかもしれないと言う。そして、 革命が起こってしまったらその後どうしよう、と考えているのである。 一八七九年の講演 「民衆の芸術」で、モリスはこんなことを述べている。 革命は夜の盗人のように突然やってくる。私たちが気づかぬうちにやってくる。では、それが 実際にやってきて、更には民衆によって歓迎されたとしよう。そのときに私たちは何をするの か。これまで人類は痛ましい労働に耐えてきた。 ならばそれが変わろうとするとき、日々の労働 以外の何に向かうのか。 そう、何に向かうのだろう。 余裕を得た社会、暇を得た社会で、いったい私たちは日々の労働 以外のどこに向かっていくのだろう。 モリスは社会主義革命の到来後の社会について考えていた。 二十世紀末、社会主義・共産主義 体制は完全に破綻したが、それはモリスの問いかけをいささかもおとしめはしない。むしろ今こ そ、この問いかけは心に響く。 「豊かな社会」を手に入れた今、私たちは日々の労働以外の何に 向かっているのか。結局、文化産業が提供してくれた 「楽しみ」 に向かっているだけではないの か。 モリスはこの問いにこう答えた。 飾るかだと。 革命が到来すれば、私たちは自由と暇を得る。そのときに大切なのは、その生活をどうやって である。 なんとすてきな答えだろう。 モリスは暇を得た後、その暇な生活を飾ることについて考えるの 今でも消費社会の提供するぜいたく品が生活を覆っていると考える人もいるだろう。 「豊かな 社会」を生きる人間は生活を飾るぜいたく品を手に入れた、と。 実 モリスは経済発展を続けるイギ はそれこそモリスが何とかしようとしていた問題であった。 しくが 4 4 退何 何をしたら 14 YA な問 筆者が ↓ 社会主義者 どうや 10 モリス 革命 2
END LEAT 本 Soon't リス社会にあって、そこに生きる人々の生活が少しも飾られていないことに強い不満を抱いてい たのである。 当時のイギリス社会では、産業革命によってもたらされた大量生産品が生活を圧倒していた。 どこに行っても同じようなもの、同じようなガラクタ。 モリスはそうした製品が民衆の生活を覆 うことに我慢ならなかった。講演のタイトルになっている 「民衆の芸術」とは、芸術を特権階級 から解放し、民衆の生活の中にそれを組み込まねばならないという意志を表したものだ。 つまり、モリスは消費社会が提供するようなぜいたくとは違うぜいたくについて考えていたの である。 モリスは実際にアーツ・アンド・クラフツ運動という活動を始める。 彼はもともとデザイナー だった。友人たちと会社を興し、生活に根差した芸術品を提供すること、日常的に用いる品々に 芸術的な価値を担わせることを目指したのだった。人々が暇な時間の中で自分の生活を芸術的に 飾ることのできる社会、それこそがモリスの考える 「豊かな社会」 であり、余裕を得た社会にほ かならなかったのだ。 モリスが作りだした工芸品は金持ちの嗜好品になってしまい、少しも民衆の中に芸術が入り込 むための手伝いにはならなかったという批判もある。 この批判は間違ってはいない。だが、 モリ スの考える方向は私たちに大きなヒントを与えてくれるだろう。 かつてイエスは「人はパンのみにて生きるにあらず。」と言った。 吉本隆明はこの言葉を解釈して、人はパンだけで生きるのではないが、しかしパンがなければ 生きられないことをイエスは認めたのだと言った。 モリスの思想を発展させれば、次のように言えるのではないだろうか。 ―――人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちは パンだけでなく、バラも求めよう。 生きることはバラで飾られねばならない。 (國分功一郎 「暇と退屈の倫理学」) 問傍線部「そもそも私たちは、余裕を得たあかつきにかなえたい何かなど持っていたのか」 について、この疑問に対する答えを、そのように言える根拠及びそのようになった原因を 含め説明しなさい。 「文」なものをもらっており、好きなことはかなわなかったことと同じではな 二傍線部2「文化産業」について、筆者が述べる現代の文化産業の特徴を説明しなさい。 側 世に文化が開かれ、大衆向けの作品を提作的に作り出し、大全書士は、利釜と 線部 の眼の搾取は資本主義を牽引する大きな力である」とあるが、現代社会にお いて「資本主義が暇を搾取している」 具体例を考えなさい。 その際、根拠となるグラフや データを自分で探し、一つ以上用いること。 四線部4「この問い」とは何ですか。それが生まれた経緯についても触れ、説明しなさい。 五線部「決して孤独な試みではない」とありますが、「孤独な試みではない」とはどう いうことですか。 端的に答えなさい。 「からかもっていない 間六傍線部6 「モリスが実におもしろい」とありますが、筆者はモリスのどのような点が「お もしろい」と感じていると考えられますか。 説明しなさい。 問七傍線部7「モリスは消費社会が提供するようなぜいたくとは違うぜいたく」とありますが、 それはどのようなぜいたくですか。 説明しなさい。 生活に根差した芸術的に価値のある日を用いた生呟をするかと。 問人 筆者が主張する「暇と退屈の倫理学」について、あなたの考えを四百字以上八百字以内で 述べなさい。

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