-
-
問題 決の文章は、トルストイ 『人生論』の一部である。これを読んで、 あとの問いに管えよ
ゅいいっ
水車が唯一の生活手段でやるような人間を想像してみよう。 この男は、父も祖父も粉ひきだったので、
粉を上手にひくには、水車をどう (am) テ えばよいのかを、あらゆる部分にわたって、ききおぼえでもち
やんと (4) 承知している。この男は、機械のことは (B) わからぬながら、 手際よく上手にゆくよ
うに、水車のあらゆる部品をできるだけ設整してきたし、 (O) 生 活を立て、 (D) [ 日を角してきたのである。
ところが、この男がたまたま水車の構造について考えたり、 前 ついでのなにやら (RE) 公しげな解釈
を耳にしたりすることがあって、 .不下どう してまわるのかを観宗するようになった。
クチよ
そして、心棒のネジからひき止に、ひき白から心権に、心権から車、車から除けに、寺に、水にと
観宗をすすめ、ついには、問題はすべて堤と川とにあることをはっきり理解するにいたった。男はこの発
見に喜んだあまり、以前のように、出てくる粉の質をくらべながら由を下げたり上げたり、(b) キクえた
り、ベルトを上ったりゆるめたりする代わりに、川を研究するようになった。そのため、彼の水専はすっ
かり詩子が狂ってしまった。粉ひきは、見当はずれのことをしていると言われるようになった。彼は送論
し、なおも川についての考察をつづけた。こ う して、永い間ひたすらその研究をつづけ、思考方法の競り
を指摘してくれた人たちとむきになって大いに議諭した結果、しまいには当人まで、川がすなわち水事そ
のものであると (c) カクシンするにいたった。
、(F) 彼の考えを誤りとするすべての論証に対して、このような粉ひきはこう答えるだろう。どんな水吉
だって水がなければ粉をひけない、 したがって、水車を知るには、どうやって水を引くかを知らなけれぼ
ならないし、水流のカカや、そのカがどこからわくかを知らなければならない。 したがって、水車を知るに
は川を知らなければならないのだ、と。
はんばく
論理的には、粉ひきのこの考察には反双しえない。粉ひきの迷いをさましてやる唯一の方法は、どの考
察においても大切なのは、考察そのものよりもせしろ、その考察の占める地位でもること、つまり、みの
り多い考え方をするためには、何を先に考え、何をあとで考えるべきかをわきまえねばならぬということ
を教えてやることだ。 また、 理性的な活動が不合理な活動と区別されるのは、 もっぱら、 理性的な活動は、
どの考察が一番目で、二番目、三番目、十番目はどれであるべきかといった只合に、重要さの順に応じて
いろいろの考察を配置する点であることも、半えてやらねばならない。ところが、不合理な活動は、この
順序を持たない考察なのである。さらに、この順序の決定は、偶然ではなく、考察の行われる目的による
のだということも、教えてやる必要がある。
すべての考察の目的がこの順序をも決定するのであり、個々の考察が理性的ねものになるためには、そ
れらがこの順序に従って配置さてんなければならない。
そして、すべての考察に共通する目的に結びつかぬ考察は、たとえどんなに論理的なものであらろう と、
不合理なのである。