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世界史 高校生

模範解答がないので答えを教えていただきたいです! 教科書から出題されているわけでもないので調べても何もわからなくて、、 1問でもいいので回答いただけると助かります!

DIAM B ヨーロッパ人の海外進出とその後の影響についての授業 先生: 今日は、16世紀頃からヨーロッパ人が海外に進出した背景、 その後の影響につい して、地図も活用しながら話し合いをしてください。 まずは、ヨーロッパの人々が海外進出し た背景について学んだことをそれぞれ答えてください。 生徒A 14世紀にイタリア人のマルコポーロが中国から帰国し、口述で残した(5 )』が影響を与えた。 (6) の国ジパングの内容が書かれていて、 人々の意欲を大い にかき立てたんだよね。 生徒B:アジア産の ( 7 ) が重宝され、 当時は銀1gと (7) 1gが同等の価値をもったら しいよ。 (7) がはやった背景には、保存用食肉の味付けや医薬品として価値があった。 14世紀頃からヨーロッパを震撼させたペストに効くといううわさが当時は広まっていたん だ。 (7) の価格をつり上げていたことで、 生徒C 現在のトルコにあった ( 8 ) 帝国が、 ヨーロッパにとっては対抗すべく新たな植民地拡大の必要性にせまられていたんだよね。 生徒D:( 9 )半島では、この地に建国されたスペインなどによりキリスト教の布教活 (10) 教勢力を挟み撃 動が活発になり、 アフリカ大陸にキリスト教徒の国を探して、 ちにしようとも考えていたんだよ。 先生:みなさん、素晴らしい。 ただし、事実とは異なった内容がありました。 どこだと思い ますか? 生徒E : 生徒 「x」さんの「Y」の部分だと思います。 正しくは 「 Z 」 です。 生徒「X」 : そうだった。 この時代は、まだそこまで進んでいなかった。 勘違いしていまし た。 先生: つぎは、海外進出の過程や、その後の影響について話し合ってみてください。 テノチティトラン 3000km マゼラン コロンブス パナマ カボット サンサルバドル キト カルティエ ヴェスプッチ クスコ ブラジル カナリア諸 スペイン ポルトガルー ガマ イギリス ヴェルデ カブラル オランダ フランス 喜望峰 リスボン パロス ディアス ロシア オスマン 帝国 マリンディ モンバ ソファラ トルデシリャス条約分界線 (1494年) ムガル帝国 ゴア。 カリカット マダガスカル セイロン鳥 明 マカオ マラッカ 朝鮮 日本 VA ・・・・ カボット (1497、98年) ガマ (1497~99年) フィリピン アンボイナ マルク(モルッカ諸島 ディアス (1487~88年) ヴェスプッチ (1499~1500,1502年) コロンプス第1回 ・ カブラル (1500年) (1492~93年) マゼラン (1519~22年) ※マゼラン死後の部下の航路を含む。 カルティエ (1534~42年)

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模範解答がないので答えを教えていただきたいです! 教科書から出題されているわけでもないので調べても何もわからなくて、、 1問でもいいので回答いただけると助かります!

DIAM B ヨーロッパ人の海外進出とその後の影響についての授業 先生: 今日は、16世紀頃からヨーロッパ人が海外に進出した背景、 その後の影響につい して、地図も活用しながら話し合いをしてください。 まずは、ヨーロッパの人々が海外進出し た背景について学んだことをそれぞれ答えてください。 生徒A 14世紀にイタリア人のマルコポーロが中国から帰国し、口述で残した(5 )』が影響を与えた。 (6) の国ジパングの内容が書かれていて、 人々の意欲を大い にかき立てたんだよね。 生徒B:アジア産の ( 7 ) が重宝され、 当時は銀1gと (7) 1gが同等の価値をもったら しいよ。 (7) がはやった背景には、保存用食肉の味付けや医薬品として価値があった。 14世紀頃からヨーロッパを震撼させたペストに効くといううわさが当時は広まっていたん だ。 (7) の価格をつり上げていたことで、 生徒C 現在のトルコにあった ( 8 ) 帝国が、 ヨーロッパにとっては対抗すべく新たな植民地拡大の必要性にせまられていたんだよね。 生徒D:( 9 )半島では、この地に建国されたスペインなどによりキリスト教の布教活 (10) 教勢力を挟み撃 動が活発になり、 アフリカ大陸にキリスト教徒の国を探して、 ちにしようとも考えていたんだよ。 先生:みなさん、素晴らしい。 ただし、事実とは異なった内容がありました。 どこだと思い ますか? 生徒E : 生徒 「x」さんの「Y」の部分だと思います。 正しくは 「 Z 」 です。 生徒「X」 : そうだった。 この時代は、まだそこまで進んでいなかった。 勘違いしていまし た。 先生: つぎは、海外進出の過程や、その後の影響について話し合ってみてください。 テノチティトラン 3000km マゼラン コロンブス パナマ カボット サンサルバドル キト カルティエ ヴェスプッチ クスコ ブラジル カナリア諸 スペイン ポルトガルー ガマ イギリス ヴェルデ カブラル オランダ フランス 喜望峰 リスボン パロス ディアス ロシア オスマン 帝国 マリンディ モンバ ソファラ トルデシリャス条約分界線 (1494年) ムガル帝国 ゴア。 カリカット マダガスカル セイロン鳥 明 マカオ マラッカ 朝鮮 日本 VA ・・・・ カボット (1497、98年) ガマ (1497~99年) フィリピン アンボイナ マルク(モルッカ諸島 ディアス (1487~88年) ヴェスプッチ (1499~1500,1502年) コロンプス第1回 ・ カブラル (1500年) (1492~93年) マゼラン (1519~22年) ※マゼラン死後の部下の航路を含む。 カルティエ (1534~42年)

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世界史 高校生

すんごいお願いします!! 問1〜5を教えてほしいです。 1〜15の答えはこれらだと思います! 1 チャンドラグプタ 2 マウリヤ 3 アショーカ 4 ダルマ 5 クシャーナ 6 カニシカ 7 大乗仏教 8 ガンダーラ 9 グプタ 10 チャンドラグプタ2世 11 ナー... 続きを読む

【4】 古代インドの王朝について、空欄に適切な語句を記入し (「知」)、 問いに答えなさい。 前317年ごろ、マガダ国の武将 (①) が (②) 朝をたてた。 (①) は西北インドのギリシア勢力を 一掃し、アフガニスタン東部も確保した。 また、 デカン高原にも支配を広げ、インド史上最初の帝国 が形成された。 第3代 (③) 王の時代に最盛期に達し、 南端部をのぞく全インドを支配した。 (③) 王 は仏教への帰依を深め、 不殺生や慈悲など守るべき社会道徳 (④、 法) を説き、 詔勅を刻んだ磨崖・ 石柱を各地に作らせた。 また、 仏教教団を厚く保護し、 仏典の編集 (仏典結集) やスリランカ布教を 援助した。 しかし、 (③) 王の死後まもなく帝国は分裂した。 1世紀に、大月氏から自立したイラン系の (⑤) 人が西北インドに (⑤) 朝をたてた。 2世紀の (⑥) 王の時代に中央アジアからガンジス川流域まで支配し、東西交易で栄え、国際色豊かな文化をうんだ。 前1世紀ごろ、 A大乗の改革運動がおこり、 2~3世紀に体系化された。 (⑥) は (⑦) を厚く保護 した。 ギリシア式彫刻の影響を受けた (⑧) 美術とともに (⑦) は中央アジア、東アジアに広がった。 4世紀はじめ、マガダ地方でチャンドラグプタ1世が (⑨) 朝をたてた。 第3代 (⑩) は、 北イン ドの大半を支配し、南インドにも進出した。 (⑨) 朝時代には、インド固有の宗教としてBヒンドゥ 一教が確立し、 インド古典文化が完成期をむかえた。 5世紀にたてられた (⑩) 僧院は、 教学の中心として発展した。7世紀前半にインドを訪れた (⑩) や7世紀後半にインドを訪れた (13) は、 ここで学修に没頭し研鑽を積んだ。 仏教美術では、 (⑧) 様 式とは異なる 「 (⑨) 様式」 が完成した。 日本の (14) 金堂壁画は (⑨) 様式の影響を明示するものと して有名である。 数学・医学・天文学なども発展し、インド数字 十進法 (15) の概念は、イスラー ム圏を通じてヨーロッパに伝わり、 近代科学の発達に貢献した。 7世紀前半、 ハルシャ=ヴァルダナが北インドを統合した (ヴァルダナ朝) が、 王の死後王朝は崩 壊した。 その後、北インドは8世紀から13世紀まで、ヒンドゥー国家が分立抗争する時代になった。 問1 下線部Aの内容を、 それ以前とのちがいをふくめて説明せよ。「思」 問2 下線部Bを50字程度で説明せよ。 「思」 問3、東南アジアにおける、 ア. 中国文化、イ.インド文化の影響を示す例を1つずつ書け。 「知」 問4、東西の交易を説明するときに重要だと考える語句を4つあげよ。 「思」 問5、ア.東南アジアに現在ある世界遺産を1つあげよ。 イ. アがある国名を書け。 「知」 ●

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世界史 高校生

インドの古典文明の単元の質問です。空欄の問題が全て分からないので教えて頂きたいです。

8 第2章 南アジア世界と東南アジア世界最大8 1 インド文明 (1) 15001 JO 1. 次の文中の空欄 ~ ①アーリヤ人がパンジャーブ地方に来住したのは前1500年ごろのことであるが, それ以前に, インドではインダス文明と呼ばれる都市文明が形成されていたことが, シンド地方 (インダス川 下流)の都市遺跡 a ■などの発掘から明らかになっている。 インダス文明のにない手はいまだ 不明であるが, インダス文字の研究から、 ②現在南インドに居住する人々との関係が注目されつ つある。 前 1000年ごろ, ガンジス川流域に進出したアーリヤ人は鉄器を使用して生産力を高めたが, このころからアーリヤ人の階層分化も進み、 b (種姓) とよばれる③四つの基本的身分が成立 した。 カースト制度はこれを大枠として発達したものである。最上位のバラモンが司る宗教をバ ラモン教とよぶ。 前7世紀ごろには, ガンジス川流域に多数の小王国が生まれ、農業や商工業も大きく成長した が,こうした社会の変化の中から, 祭式万能のバラモン教に対する反省や批判も生じた。 バラモ ンが中心となって編纂した④梵我一如を説く哲学書の影響を受けて、 cを開祖とするジャイ ナ教, ガウタマシッダールタを開祖とする仏教など新しい思想・宗教が創始され, 全インドに広 まっていった。その後インダス川流域では小王国の統合が進み,前5世紀にはd 国が最も有 力となった。 前4世紀後半, e が西北インドに侵入すると, これに刺激されてインドでは f を都と するマウリヤ朝が成立した。 マウリヤ朝はギリシア勢力を駆逐するなどして勢力を拡大し,第3 代アショーカ王のころには南端部を除く全インドを支配下においた。 アショーカ王は仏教に帰依 して⑤人間の普遍的な倫理に基づく政治をこころざし, 仏典の編さんやgなど辺境への布教 を支援した。 ASTA303) 「マウリヤ朝が衰退したのち、西北インドには1世紀にクシャーナ朝が成立し、2世紀 h 王の時には、都の i を中心に中央アジアからガンジス川中流域までを支配する大国となっ た。このころ大乗仏教がひろまり, またギリシア美術の影響を受けた j 美術が生まれ, 仏 像の制作が始まった。 or for thế này thế nà 〔語群] (ア) マガダ (イ) ジャーティ (ウ) コーサラ (エ) アレクサンドロス (オ)カエサル (カ) プルシャプラ (キ)パータリプトラ (クハラッパー (7) モエンジョ=ダーロ (コ) カニシカ (サ) チャンドラグプタ (シ) ヴァルナ (2) ガンダーラ (セ) スリランカ (セイロン島) (ソ) ドーラヴィーラー (タ) ヴァルダマーナ (チ) バクトリア モーヤ 問1 下線部①について, このころまとめられた祭式の詠歌詞や呪法を集めた「神々への讃歌 「集」のうち,最古のものを何と呼ぶか 2 下線部②について, これはどのような人々か。 「~系」 のように答えよ。 問3 下線部③について, これらのうち、王侯 戦士身分を何というか。 下線部④について,この哲学書を何というか 問4 問5 下線部⑤について, この概念をインドでは何というか。 IT キ 問1~5に答えよ。 にあてはまる語句を下の語群から選び、 b a f g 問1 リグ=ヴェーダ 問4 ウパニシャット哲学 セ AN C h コ 問2 ドラヴィダ系 問5 ダルマ d i ロ Kredie IM ti j 問3 クシャトリヤ

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世界史 高校生

社会苦手なので教えて欲しいです よろしくお願いします

■列伝に見える 『史記』 の特徴③ 貨殖 (かしょく) 列伝 「貨殖(かしょく)」 の 「貨」は財貨のこと、 「殖」 は増えるという意味です。 そこで「貨殖」 は財産を作って金持ちになった人々の伝記ということになります。 前近代社会では、 お金を稼ぐことは賎(いや) しいこととされました。 そのため 「士・農・ 工商」 と言われるように、 商人は一番下の身分です (この言葉も本来は中国の言葉)。 キリスト教世界においても同様に金儲けは残しいこととされました。 司馬遷はそのような蔑視された人々も評価して、 彼らの伝記を書いたわけです。 事例 2 を読んで下さい。 事例2: 『史記』貨殖列伝 曹の氏 りんしょく そ はな おきて 魯の国の人の習わしは倹約と (物惜しみ) であった。 曹の那氏は、ことに甚だしかった。 製鉄で富を作り、巨万の富みに達した。 けれども家人は父や兄から子や孫まで、 みな家の掟を守り、 「下を見たら物を拾え、上を見たら何か取れ」 というのであった。 その貸し金と取り引き先はいろんな 地域にゆきわたっていた。 そういうわけで鄒や魯の地方では、学問をやめて営利に走るものが多くな ったのは、曹の那氏の影響である。 ここで一つ目のポイントをまとめておきます。 ① 『史記』 の本紀には、 皇帝になっていない人物の伝記が記載されている。 ② 『史記』 の列伝には、 官僚以外の様々な身分の人々の伝記が記載されている。 次ぎに司馬遷の価値観・思考について、 彼に対する批判を参照しながら確認していきます。 3. 司馬遷の価値観 ■班固 (はんこ)の司馬遷批判 司馬遷の 『史記』 の特徴で見たように、 『史記』 には皇帝になっていない自分の伝記があ ったり、官僚以外の人々の伝記が記されていました。 とくに 『史記』 が社会の底辺の人々 や蔑視された金持ちの人々の伝記を書いたことについては、後世の歴史家によって批判 されています。 ここでは後漢(ごか) の歴史家、 班固 (はんこ) の批判を見ておきましょう。 班固 (はんこ) は前漢 (ぜんかん) 王朝の歴史を記した『漢書(かんじょ)』の著者です。 そ のため、 班固は前漢の人である司馬遷の伝記も書いています。 その一部が下の事例3で す。 8 事例3: 斑固の司馬遷評価 班固『漢書』 司馬遷伝 すこぶ 『史記』の歴史批判は頗る聖人のそれに反している。 道を論じては老子の思想を優先させて、 ①儒 ゆうきょう 家の経典を後回しにしている。 ② 遊侠の列伝を書いては民間の学徳ある人を退け、 姦雄 (悪知恵のず ひんせん ちじょく ば抜けている者)を称えている。 ③ 貨殖の列伝を記しては利を尊重し、 貧賤を恥辱としている。 これ が 『史記』 の弊害である。 ろうし *老子: 道家思想を創始したと言われる人。 自然をたっとび人為的な道徳・ 学問などを否定した。 事例3では、 班固は司馬遷が ①儒学を軽んじていること ② 遊侠列伝を書いたこと ③貨殖列伝を書いたこと を批判しています。 このうち貨殖列伝は、さきほども紹介したとおり金持ちになった人々の伝記でした。 お 金を儲けることは、洋の東西を問わず前近代社会において軽蔑の対象となる行為であっ たわけです。 その点で班固の批判は、 前近代社会では当然とも言えます。 ■司馬遷の意見1 一方、司馬遷は自ら遊侠列伝や貨殖列伝を書いた理由を述べています。 下の事例4 を読 んで下さい。 事例4: 『史記』 太史公自序 ゆうきょう ① 遊侠 列伝について 苦難にある人を救い、金品に困っている人を援助するということでは、仁著(仁愛の人)も学ぶ 点があり、信頼を裏切らず、 約束に背かないということでは、 義人 (正義の人) も見習う点があろう。 「ゆうきょう そこで遊侠列伝を作る。 ② 貨殖列伝について 官位を持たない全くの平民でも、政治の害にならず、 人々の活動を妨げることもなくて、 うまい時 機を見はからい物の売買をし、 それでもって富を増やす。 知恵のある人は、 そこから得るところがあ るだろう。 そこで貨殖列伝を作る。 *太史公自序: 司馬遷が 『史記』 の列伝の中で書いた自分自身の伝記。 事例4で司馬遷は、 遊侠の人や金持ちの人商人からも、それぞれ学ぶべき点があると 述べています。 つまり司馬遷は彼らに対する偏見を持たず、 独自の視点から遊侠の人や 金持ち 商人の事跡についても記録する価値があると考えたわけです。 9

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優しい方教えて欲しいです。 よろしくお願いします

■列伝に見える 『史記』 の特徴③ 貨殖 (かしょく) 列伝 「貨殖(かしょく)」 の 「貨」は財貨のこと、 「殖」 は増えるという意味です。 そこで「貨殖」 は財産を作って金持ちになった人々の伝記ということになります。 前近代社会では、 お金を稼ぐことは賎(いや) しいこととされました。 そのため 「士・農・ 工商」 と言われるように、 商人は一番下の身分です (この言葉も本来は中国の言葉)。 キリスト教世界においても同様に金儲けは残しいこととされました。 司馬遷はそのような蔑視された人々も評価して、 彼らの伝記を書いたわけです。 事例 2 を読んで下さい。 事例2: 『史記』貨殖列伝 曹の氏 りんしょく そ はな おきて 魯の国の人の習わしは倹約と (物惜しみ) であった。 曹の那氏は、ことに甚だしかった。 製鉄で富を作り、巨万の富みに達した。 けれども家人は父や兄から子や孫まで、 みな家の掟を守り、 「下を見たら物を拾え、上を見たら何か取れ」 というのであった。 その貸し金と取り引き先はいろんな 地域にゆきわたっていた。 そういうわけで鄒や魯の地方では、学問をやめて営利に走るものが多くな ったのは、曹の那氏の影響である。 ここで一つ目のポイントをまとめておきます。 ① 『史記』 の本紀には、 皇帝になっていない人物の伝記が記載されている。 ② 『史記』 の列伝には、 官僚以外の様々な身分の人々の伝記が記載されている。 次ぎに司馬遷の価値観・思考について、 彼に対する批判を参照しながら確認していきます。 3. 司馬遷の価値観 ■班固 (はんこ)の司馬遷批判 司馬遷の 『史記』 の特徴で見たように、 『史記』 には皇帝になっていない自分の伝記があ ったり、官僚以外の人々の伝記が記されていました。 とくに 『史記』 が社会の底辺の人々 や蔑視された金持ちの人々の伝記を書いたことについては、後世の歴史家によって批判 されています。 ここでは後漢(ごか) の歴史家、 班固 (はんこ) の批判を見ておきましょう。 班固 (はんこ) は前漢 (ぜんかん) 王朝の歴史を記した『漢書(かんじょ)』の著者です。 そ のため、 班固は前漢の人である司馬遷の伝記も書いています。 その一部が下の事例3で す。 8 事例3: 斑固の司馬遷評価 班固『漢書』 司馬遷伝 すこぶ 『史記』の歴史批判は頗る聖人のそれに反している。 道を論じては老子の思想を優先させて、 ①儒 ゆうきょう 家の経典を後回しにしている。 ② 遊侠の列伝を書いては民間の学徳ある人を退け、 姦雄 (悪知恵のず ひんせん ちじょく ば抜けている者)を称えている。 ③ 貨殖の列伝を記しては利を尊重し、 貧賤を恥辱としている。 これ が 『史記』 の弊害である。 ろうし *老子: 道家思想を創始したと言われる人。 自然をたっとび人為的な道徳・ 学問などを否定した。 事例3では、 班固は司馬遷が ①儒学を軽んじていること ② 遊侠列伝を書いたこと ③貨殖列伝を書いたこと を批判しています。 このうち貨殖列伝は、さきほども紹介したとおり金持ちになった人々の伝記でした。 お 金を儲けることは、洋の東西を問わず前近代社会において軽蔑の対象となる行為であっ たわけです。 その点で班固の批判は、 前近代社会では当然とも言えます。 ■司馬遷の意見1 一方、司馬遷は自ら遊侠列伝や貨殖列伝を書いた理由を述べています。 下の事例4 を読 んで下さい。 事例4: 『史記』 太史公自序 ゆうきょう ① 遊侠 列伝について 苦難にある人を救い、金品に困っている人を援助するということでは、仁著(仁愛の人)も学ぶ 点があり、信頼を裏切らず、 約束に背かないということでは、 義人 (正義の人) も見習う点があろう。 「ゆうきょう そこで遊侠列伝を作る。 ② 貨殖列伝について 官位を持たない全くの平民でも、政治の害にならず、 人々の活動を妨げることもなくて、 うまい時 機を見はからい物の売買をし、 それでもって富を増やす。 知恵のある人は、 そこから得るところがあ るだろう。 そこで貨殖列伝を作る。 *太史公自序: 司馬遷が 『史記』 の列伝の中で書いた自分自身の伝記。 事例4で司馬遷は、 遊侠の人や金持ちの人商人からも、それぞれ学ぶべき点があると 述べています。 つまり司馬遷は彼らに対する偏見を持たず、 独自の視点から遊侠の人や 金持ち 商人の事跡についても記録する価値があると考えたわけです。 9

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