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日本史 高校生

読んでもよく分かりませんでした 分かる人は下の問いを教えてください! お願いします🙇‍♀️

内閣総理大臣桂太郎、 外務大臣小村壽太郎らに提出された意見書。 6月11日におそらく作者のリークにより 七博士意見書 (しちはくしいけんしょ)とは、 日露戦争開戦直前の1903年(明治36年) 6月10日付で当時の 東京日日新聞に一部が掲載され、6月24日には東京朝日新聞4面に全文掲載された。 年の7人 (「東大七博士」) によって書かれた。 内容は桂内閣の外交を軟弱であると糾弾して「バイカル湖まで 東京帝国大学教授戸水寛人、 富井政章、 小野塚喜平次、高橋作衛、 金井延、 寺尾亭、 学習院教授中村進 侵攻しろ」 と主戦論を唱え、 対露武力強硬路線の選択を迫ったものであり、世論の反響も大きかった。 この意 見書を読んだ伊藤博文が 「なまじ学のあるバカ程恐ろしいものはない」と述べたと言われている。 同書を渡さ れた桂太郎は「政策のことまではいいが、軍事のことまで言うか」と困惑した。 4 44 「東大七博士の意見書」 『東京朝日新聞』 「噫(ああ)我国は既に一度遼東(りょうとう) 還附(かんぷ)に好機(こうき)を逸(いっ)し、 再び之(これ)を膠州湾事件(こうしゅうわんじけん) に逸(いっ)し、又(ま)た三度(みたび) 之れを北清事変(ほくしんじへん) に逸(いっ) す。 豈 (あ)に更(さら) に此覆轍(このふくて つ)を踏(ふ)んで失策 (しっさく)を重(かさ) ぬべけんや。 既往 (きおう) は追ふべからず、 只之 (ただこれ) を東隅 (とうぐう) に失ふも之れを桑楡 (さんゆ) に収 (おさ) むるの策 (さく)を講(こう)せざるべからず。 特に注意を要すべきは極 東 (きょくとう) の形勢漸(ようや)く危急 (きき)に迫 (せま)り、既往(きおう) の如(ごと)く幾 回(いくかい) も機会を逸(いっ) する余裕を存せず。 今日の機会を失へば遂(つい)に日清 韓 (にっしんかん) をして再び頭(こうべ)を上ぐるの機 (き) なからしむるに至(いた)るべき こと是(これ)なり。 (中略) 故(ゆえ)に極東現時(きょくとうげんじ)の問題は必ず満州 (まんしゅう) の保全 (ほぜ ん)に就(つき)て之(これ) を決せざるべからず。 もし朝鮮を争議 (そうぎ)の中心とし、 其 (その) 争議に一歩を譲 (ゆず) らば是(こ) れ一挙(いっきょ)にして朝鮮と満州とを併(あ わ)せ失ふことなるべし。 (中略) 之を要するに、 吾人(ごじん) は故(ゆえ) なくして漫 (みだ)りに開戦を主帳するも のにあらず。又(また) 吾人の言議 (げんぎ) 適中(てきちゅう)して後世(こうせい)より先覚 (せんかく) 予言者(よげんしゃ) たるの名称を得るは却(かえっ)て国家の為(ため)に嘆 (たん) すべしとするものなり。 (ああ) 我邦人 (わがほうじん)は千歳(せんざい) の好機 (こうき)を失はば我邦 (わがほう)の存立(そんりつ)を危(あやう)うすることを自覚(じか く)せざるべからず」 【作業】内村と東大七博士の言い分のどちらにより道理があるとおもいますか? 理由も書きましょう。

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日本史 高校生

この問題の完全回答教えて頂きたいです🥲何度教科書を読んでもなかなか分からなくて、、

論述問題 [知識・技能] [思考・判断・表現] 646年の「改新の詔」 において示された 「公 地公民制」 と、 これに関連して、中大兄皇子が 664年に示した政策、 天武天皇が 675 年に示 した政策をそれぞれ説明しなさい。 なお、 時代 を追って説明するとともに、中大兄皇子の政 策についてはその要因となった出来事に、 天 武天皇の政策についてはその目的にそれぞれ 言及すること。 <10> 連処 改新の詔 (『日本書紀』、原漢文) む。 以上に賜ふこと、各差あら めよ。仍りて食封を大夫より る曲の民、処々の田荘を 連・伴造・国造・村首の所有 処々の屯倉、及び、別には臣・ の立てたまへる子代の民、 其の一に曰く、昔在の天皇等 採点の考え方 (ルーブリック) (観点1) 公地公民制とその後の政策の内容について [思考・判断・表現] [4点] 時系列に正しく表現している [3点] 時系列に概ね表現している [2点] 概ね表現している [1点] 一部を表現している [0点] 全く表現できていない (観点2) 中大兄皇子の政策の要因 [知識・技能] [3点] 出来事の名称とその結果に言及している [2点] 出来事の名称に言及している [1点] 読み取れる記述はあるが、 出来事の名称に言及できていない [0点] 全く記述なし (観点3) 天武天皇の政策の目的 [知識・技能] [3点] 国家体制に関連させて正しく記述している [2点] 国家体制に関連させて記述している [1点] 国家体制に言及できていない [0点] 全く記述なし

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日本史 高校生

鎌倉時代の武士の存り方について、「一所懸命」(武士が主君から賜った一か所の領地を命がけで守り、それを生活の頼りにして生きた、というような意味の言葉)という言葉で表される場合があるが、それは彼らが一か所に定着して動かぬ存在だったという意味ではない、とのとらえ方があります。この... 続きを読む

奈良市) 南大門は、 ある大仏様を採用し 建築で、平安時代の 人々を驚かせた。 大寺) ヒの影響があ ちんけい つ陳和卿らを ぶつよう、 ダム様)。 また, 様式が伝え えた。 また、 宋の技術を ゆうしゅう 優秀な作品 彫刻では運 絵でえが 35 絵巻物も この御家流 10 15 20 歴史を探る 全国に展開する御家人の所領 岩 いっしょけんめい 鎌倉時代の武士のあり方について 「一所懸命」という言葉 が使われることがある。もちろん武士にとって土地(所領), 特に「名字の地」とよばれる本拠地が重要であったことはま ちがいない。しかし、武士たちは一か所の土地にとどまる だけではなかった。 鎌倉幕府に結集した御家人たちは、多くの合戦を通して へいし おうしゅうふじわら じょうきゅう 平氏や奥州藤原氏などをほろぼし, 承久の乱では朝廷にも 勝利した。 また、幕府の内部でも政治権力をめぐって多く の合戦が行われた。 これらの合戦での敗者の所領は、勝者 しんおんきゅうよ となった御家人たちに新恩給与として分配された。 この結 果 御家人はその本拠地のほか, 全国各地に所領を持つこ ととなった。 さがみ しぶやのしょう たとえば,相模国渋谷荘を本拠地とする渋谷氏の一族で じょうしん けんちょう うちもじり てお ある渋谷定心は,1250 (建長2)年には打線 寺尾村などの いせみだ こうずけ おおるい みまさか かわい 渋谷荘の一部のほか、伊勢国箕田・上野国大類・美作国河会 ごう さつまいん やしき 郷・薩摩国入来院を所領とし、 鎌倉にも屋敷を持っていた。 しげつね 定心の子の重経は, 寺尾村と箕田, 入来院と河会郷の一部 ゆず を譲られている。 各地に所領をもつ御家人たちは自ら現地をおとずれるほ だいかん か,一族や代官を派遣して所領の経営や年貢の徴収を行っ かわし ており, 送金には為替も利用された。 また, 自らは現地に (かわせ)かしあげ、 ➡p.88 関与せず, 金融業者 (借上) を代官として、年貢を受けとる のみの場合もあった。 えんかく 御家人たちが遠隔地の所領から収入を確保できた背景に ちょうこくしゅ は,全国各地から荘園領主 知行国主へと年貢などを送付 → p.68 するための, 荘園公領制と密接に結びついた物流・金融シ ステムが存在した。 こうしたシステムが機能しなくなると, 遠隔地の所領を維持する ことは困難となった。 御家人たちは所領経営 のため以外にも, 京都大 ばんやく 番役や鎌倉番役などのた めに旅をした。 また, 熊 もう じしゃさんけい 野詣などの寺社参詣の旅 も行っていた。 鎌倉時代の武士は全国 各地に所領を持ち,広範 囲に移動する存在だった のである。 入来院(薩摩) 河会(美作) 大 友衝房藤原 箕田大功田(伊勢) ↑渋谷定心の所領分布 大類(上野) 箕田大切 六八掛付 八月 薩摩国全 任と父五三 PA 鎌倉 ばしゃいしゃ ↑旅をする武士と年貢などを運ぶ馬借 (「石山寺縁起絵巻』 石山寺蔵) 渋谷荘(相模) 作る 寺村 400km まんどころくだしぶみ ↑将軍家政所下文案 (東京大学史料編纂所蔵) 渋 谷定心から重経への所領の譲与を安堵した文 じょうよ あんど 書の写し。 下 97

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日本史 高校生

(4)(5)(6)教えてください💦

次の文を読み、 (①)~ (①) に適語を入れ, 下の設問に答えよ。 鎌倉時代は,公家が文化の担い手となって伝統文化を受け継ぐ一方で, 新しい文化が生み出され,武 士や庶民に支持されて次第に成長していく時代であった。 このようななか, 平安末期から鎌倉中期にか けて,仏教はそれまでの祈藤や学問中心のものから内面的な深まりを持ちつつ, 庶民など広い階層を対 象とする新しいものへと次第に変化していった。 ( )は, (込もっぱら念仏をとなえれば死後平等に極 楽往生できると説き, その教えは武士や庶民の心をとらえ, のちに浄土宗の開祖と仰がれた。(①)の 弟子(2)は、師の教えを一歩進め、(煩悩の深い人間こそが阿弥陀仏の救済対象であるという独自の 教えを説いて信者を増やし、のちの(逢土真宗の祖となった。こうした新興仏教の台頭に刺激され, 旧 仏教側も新たな動きをみせた。法相宗の貞慶や華厳宗の(③ ) らは僧尼の守るべき規範である()の 尊重を説き,南都仏教の復興に力を注いだ。 また(d)律宗の忍性のように社会事業に力をつくした僧侶も 現われた。 鎌倉時代の後半には, 浄土教の流れのなかから()が現われた。( ⑤ )は念仏札を配り、踊念仏に よって民衆に布教し,その教えは()とよばれ,武士や農民に広がっていった。同じ頃,()日蓮は法 華経を釈迦の正しい教えとして選び,これを信じることにより救われると説いた。そして他宗を激しく 攻撃し,幕府の迫害に耐えながら布教を続けていた。 しかし,鎌倉時代の武士たちの多くが信仰したのは, 宋から帰国した(& )によってもたらされた禅 宗(臨済宗)であった。鎌倉幕府は(& )や円覚寺などの大寺院を建立し,蘭渓道隆や円覚寺を開山した (9)ら宋から多くの禅僧を招くなどして臨済宗を厚く保護した。それに対して, (① )の弟子に学ん だ(@)は,(f)世俗との交わりを絶ち,(8ひたすら坐禅することで悟りに至ることを主張して(① )の 開祖となったのである。 [設問](以下線部(a)について,この教えを何というか。漢字4文字で答えよ。 (2人下線部(b)について, この考え方を何というか。 )下線部(c)について, 浄土真宗の祖である (②)の主著を次から一つ選び記号で答えよ。 文.「教行信証』 (4)下線部(d)について, 忍性がハンセン病患者救済のため奈良に建てた施療施設は何か。 (5) 下線部(e)について, ト人日蓮がその教えのなかで重視し,となえることを説いたものは何か。 漢字2文字で答えよ。)彼の主著で, みずからの教えを幕府に説くため, 前執権北条時頼 に提出したものは何か。 (6) 下線部(f)について, 権力者との結びつきをきらった(0)が越前国に建てたもので,(①)の中 心寺院となっている寺院は何か。 イ.「敷異抄」 及「選択本願念仏集」 次、「選択本願念仏集」 「正法眼蔵」 ()下線部(g)について, このことを何というか。漢字4文字で答えよ。

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