日本史 高校生 2年以上前 鎌倉時代とか室町時代とかは将軍と御家人という関係が御恩と奉公で力を持ってたと思うのですが、 応仁の乱などの下剋上の風潮が出てきてからは戦国時代あたりから 将軍に代わって下剋上で這い上ってきた大名たちを中心に国人とかとの間に御恩奉公の関係をつくるようになったんですか? 回答募集中 回答数: 0
日本史 高校生 2年以上前 この画像は応仁の乱後らへんの農民の惣を通した団結の影響の部分なのですが、よくこの画像の内容がわかりません、 年貢って一部を荘園領主に収めないといけなかったと思うのですが、それを請け負ったと言う意味がよくわかりません。それとなぜ荘園領主が現地に口出せなくなるのかもよくわかりません。 このように農民の団結が強固になってくると、荘園領主との関係にも そうそん 変化が現れ,現地を自分たちで支配する惣村が領王に納める年貢なン。 請け負うようになっていきます。 領主側は、現地には口を出せなくなる お じげうけ ひゃくしょううけ むらうけ これが地下請です。「百姓請」「村請」とも呼びます。 解決済み 回答数: 1
日本史 高校生 2年以上前 観応の半済令等について 内容は守護にある一定の国の現地から年貢の半分を軍費として武士に与える役割を与えたことだと思うのですが、 ⓵これって直接的には守護にメリットありませんよね?武士にしかメリットないですよね?間接的に仕事が増えて権力が増える?と言う意味ではいいのかもしれな... 続きを読む 解決済み 回答数: 1
日本史 高校生 2年以上前 この文矛盾してませんか? れっせい 南朝方は軍事的には劣勢ですが, 全国に, いくつかの有力な支持グルー プの武士がいます。京都の北朝政権は,軍事的には優勢を保ちますが、 たかうじ せいい たいしょうぐん 南朝をつぶすだけの力はない。足利尊氏は,1338年には征夷大将軍 未解決 回答数: 1
日本史 高校生 2年以上前 土岐康行の乱では土岐康之は義満によって謀反に追い込まれたとありますが,なぜ彼は追い込まれる必要があったのでしょうか?義満はべつに守護大名と対立してなかったと思うのですが、なぜわざわざ… 解決済み 回答数: 1
日本史 高校生 2年以上前 後醍醐天皇も尊氏も醍醐天皇・村上天皇を参考にしているはず(建武の新政/梅松論 や建武式目)なのになぜこんなに世間評価は変わってくるんでしょうか? そもそも醍醐天皇・村上天皇はどんな感じの政治をしてて各々どうゆうとこを参考にしたんですか? 回答募集中 回答数: 0