政期から荘園が増
や収益の豊かな国を与えられた。 とくに鳥羽上皇の時代になると,院の周辺
る。
に荘園の寄進が集中したばかりでなく, 有力貴族や大寺院への荘園の寄進も
ふゆふ にゅう
増加した。また,不輪・不入の権をもつ荘園が一般化し, 不入の権の内
容も警察権の排除にまで拡大されて, 荘園の独立性が強まった。
ちぎょうこく
いんぶんこく
またこの頃には知行国の制度 ② や,上皇自身が国の収益を握る院分国の
こくしゅ
制度が広まって, 公領は上皇や知行国主・国司の私領のようになり,院政を
支える経済的基盤となった。
そうへい
大寺院も多くの荘園を所有し,下級僧侶を憎兵として組織し、国司と争い,
しんほく
しん よ
にょいん
神木や神輿を先頭に立てて朝廷に強訴して要求を通そうとした。 神仏の威
● 上皇は, 近親の女性を院と同じく待遇 (女院) して大量の荘園を与えたり, 寺院に多くの荘
園を寄進したりした。 たとえば, 鳥羽上皇が皇女八条院に伝えた荘園群 (八条院領)は平安時代
ちょうこうどう
だいかくじとう
じみょういんとう
末に約100カ所, 後白河上皇が長講堂に寄進した荘園群 (長講堂領)は鎌倉時代初めに約90カ所
という多数にのぼり それぞれ鎌倉時代の末期には大覚寺統 持明院統 (p.120) に継承され,
その経済的基盤となった。
② 上級貴族に知行国主として一国の支配権を与え、その国からの収益を取得させる制度。知
もくだい
行国主は子弟や近親者を国守に任じ、現地には目代を派遣して国の支配をおこなったが,これ
ほうろく
は貴族の俸禄支給が有名無実化したため、その経済的収益を確保する目的で生み出された。
こうふくじ
③ 興福寺の僧兵は奈良法師と呼ばれ、春日神社の神木の榊をささげて京都に入って強訴し,
えんりゃくじ
なん
やまほうし
延暦寺の僧兵は山法師と呼ばれ, 日吉神社の神輿をかついで強訴した。 興福寺・延暦寺を南
と
ほくれい
都・北嶺という。鎮護国家をとなえていた大寺院のこうした行動は、法によらずに実力で争う
という院政期の社会の特色をよく表わしている。
1. 院政と平氏の台頭 89