いが ち ょ うど い い
わからないぐ
どんなにシェアされたって、私が聞きたいのはそれじゃない、と思う。SNSで教えてもら
みに会いたいとも思わない。SNSはつながるだけで「友達」だなんて言うけれど、でも他人
がかき集めた「好きなもの」を見ただけで、その人のことを知ったつもりになるわけに、いか
った好きな食べ物、好きな音楽、そんなものを知ったところで私はまだまだきみを知らず、き
ないんだ。失礼だろう。
共有したいっていう感情が、ずっとずっと邪魔だった。わからないものは怖くて、みんなが」
避けてしまうから、だから「わかる人だよ」と伝えるためにも、たくさんの自分の事柄を他人」
と共有しなくちゃいけない。みんなの知っているものが私は好きで、みんなの知っているよう」
な友達がいて、みんなの知っているような服を着る。そうやって自分をデフォルメして、他人」
に伝える、理解してもらうという、そういう作業が気持ち悪くて仕方がない。自分のことを伝
えているつもりで、実際には自分をどんどん打ち消して、もうまったく別物にしてしまう。他
人と同じふりをしないと他人といられないのなら、それは、その人はそこにいる必要がないっ
てことだ。そんな生き方は悲しすぎる。
言葉は簡単に、すべてを簡略化して、まったく違うものにしてしまう。クラスメイトと毎日
昼食を食べて、音楽の話をするようになった、それだけでよかったのに、その関係性に「親
友」と名付けてしまう。それだけで、きっとなにかが失われていた。自分だけの感情や関係を、
他人に伝えるため、共有するため、たった一つの不思議な形をしていたそれらを、既存の概念」
心押し込んで、余計なものを削り落とした。そうでもしないと他人に伝えられないから。伝え
られなかったら、「意味不明な子」って切り捨てられちゃうから。そう必死になっていた。け
れど、実際のところ切り捨てたそれらは本当に(「余計なもの」だったのか? 懸命に他人にわ
かってもらおうとしている一方で、自分の存在を否定し続けていた。そして、そうやって捨て一
てきたものを、人は永遠に思い出せない。