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日本史 高校生

問3の問題でyが誤な理由を教えて欲しいです。 解答は2です。

日本史練習問題センター試験 2009年度本試験 近代日本における代表的な外交官の一人であり、政治家としても活動した幣原喜重郎に関する 次の文章を読み、後の問いに答えなさい。 A 1872年 現在の大阪府に生まれた幣原喜重郎は、大学卒業後外務省に入省し、外交官として の経験を重ねた。第一次世界大戦下において外務次官に就任し、その後の内閣においてaロシア 半命に対する日本軍の介入の事後処理などに従事した。その後駐米公使としてアメリカに赴任し た需原は、ワシントンで実施された国際会議において全権の一人として出席し、b 海軍軍縮およ び中国大陸·太平洋における列強諸国との権益調整に尽力した。 問1下線部a に関して述べた次の文XYについて、その正誤の組み合わせとして正しいものを一 つ選びなさい。 X 日本は、イギリスなど他の派兵国よりも長期にわたって介入を継続した。 Y この軍事介入の影響で、国内の米価が下落し、困窮した農民が全国で騒優をおこした。 0 X 正Y正 2 X 正Y誤 ③ X 誤Y正④ X 誤Y誤 問2下線部bに関して述べた次の文について、古いものから年代順に正しく配列したものを一つ 選びなさい。 I 国策の手段としての戦争の放棄を約した不戦条約に調印した。10 II 補助艦の総保有量を英·米の約7割とすることに合意した。 I 主力艦保有量を英·米の5分の3に制限することに合意した。 192 2 I→II→I I→I→I 5 I→I→I 6 Ⅲ→Ⅱ→I Bc原が外務大臣として活躍した機関は、 一時の中断をはさんで1924年から 1931 年までの長 い期間にわたるが、その間の外交方針はほぼ一貫しておりd「幣原外交と呼ばれた。軍縮条約 への取り組みなどにこうした姿勢は顕著である。 しかし、このような常源の外交方針は、対立勢 カやe中国における日本軍の行動によって妨げられることになる。最終的に 1931 年、陸軍が中 国東北部でおこした軍事的行動なとどによって、 幣原の外交路線は 問3下線部cに関連して、 1920年代の日本は国内で社会運動が活発化した時期としても知られて いる。次の表を参考にしながら、 この時期に農村で起こった小作争議に関して述べた下の文XY について、その正誤の組み合わせとして正しいものを一つ選びなさい。 x 普通選挙法が成立した前後の両年を比較すると、 小作争議件数は増加をみせたが、その後は 一時的に減少した。 Y 世界恐慌の影響が日本に波及した結果、困窮した農民による個々の争議が大規模化する傾向 がみられた。 0 X 正Y正 ② X 正 Y 誤③ X 誤Y正④X誤 Y 誤 した。 小作争議の件数と規模 項目|小作争議件数参加小作人数|1件当りの参加 B 年 A 小作人数B/A 1920年 408 34,605 84.8 1922年 1,578 125,750 79.7 1924年 1,532 110,920 72,4 1926 年 2,751 151,061 54.9 1928年 1,866 75,136 40.3 1930年 2,478 58,565 23.6 1932年 3,414 61,499 18.0 (安藤良雄編『近代日本経済史要覧(第2版)』より作成)

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日本史 高校生

よければ教えてください。

1】次の文を読み,(①)~(⑥)には適語を入れ, 下の設問に答えよ。 4年余りにおよんだ第一次世界大戦は,1918年,ドイツの降伏によって終結し.翌年,(a)パリで講和 会議が開かれた。この会議は, アメリカ大統領( ① )が提唱した14カ条を基礎として議論がおこなわれ, (② )の原則のもとで東欧に多数の独立国家が誕生し, 初の国際平和維持機関として(③ )の設立が決 まった。一方で, 講和条約として調印された( ④ )条約は, ドイツに巨額の賠償金を課し,さらに軍備 制限,領土割譲を求めるきびしいものとなった。 日本はこの(O)条約によって, ( ⑤ )半島の旧ドイツ権益継承を認められるとともに,赤道以北の ドイツ領南洋諸島の(⑥ )権をえた。しかし,中国国内でこの条約の内容が伝わると, 北京の学生によ る街頭運動に端を発した(b)激しい反日運動がおきるとともに,中国政府も条約の調印を拒否した。 朝鮮では,これより先に( ② )の世論の高まりを背景に,朝鮮独立を求める運動がもりあがり,1919 年3月,京城(ソウル)で独立宣言書朗読会を機とした(c独立運動が,朝鮮全土で展開された。(d)日本の 現地支配者はこの運動をきびしく弾圧したが,反面,(e)朝鮮支配の方針に若干の変更をおこなった。 [設問](1) 下線部a)について, この会議に日本全権として出席した立憲政友会前総裁は誰か答えよ。 (2) 下線部(b) - (c)の運動をそれぞれ何というか答えよ。 (3) 下線部(d)について,このときの日本の内閣の首相は誰か答えよ。 (4)下線部(e)について, このとき,朝鮮総督の資格が拡大されたが内容を20文字程度で記せ。 の 3 (2Xb) 各2点,計22点 (2) 次の文を読み, (①)~ (③) には適語を入れ,下の設問に答えよ。 大戦後,国際政治の主導権をにぎったアメリカは,建艦競争を終わらせ, 自国の財政負担を軽減する ことと,日本の東アジアでの膨張を抑えることを目的として, 1921年から翌年にかけて(a)( ① )会議を 開催した。この会議によって,(① )体制とよばれるアジア·太平洋の新たな国際秩序が形成され 1920年代は(b列国の国際協調がはかられた時期であった。日本もこの秩序を積極的に受け入れ,立憲政 友会の内閣は協調外交の基礎をつくり, 野党としてこれを批判した( ② ) も, のちに ( ② ) 総裁の (3)を首相とする護憲三派内閣が成立してからは, (c)協調外交政策を推し進めた。 [設問](1) 下線部(a)について, この会議では(A)四カ国条約,(B)九カ国条約, (C)海軍軍縮条約が調印され たが,次に示す事柄はそれぞれどの条約にもっとも関係が深いか, (A)~(C)の記号で答えよ。 また,どの条約とも関連がない場合は, 解答欄に×印を記入せよ。 イ太平洋諸島の現状維持 オ.主力艦の保有制限 ウ.日英同盟の廃棄 カ.補助艦の保有制限 ア.中国の領土と主権の尊重 エ.石井·ランシング (2) 下線部(b)について, 1928年に調印された世界で初めて戦争放棄を定めた条約名を答えよ。 (3) 下線部(c)について, この外交を推し進めた外務大臣の名を答えよ。 の廃棄 (1)ア エ 各2点,計22点

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