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古文 高校生

徒然草の問題です。 問4の答えは「東国でしら梵字の師が殺されたこと。」だと思ったのですが、解説に「いろをしの立場からまとめる。」と書いてあって、答えは「東国でしら梵字の師を殺したこと。」となるようです。どうしていろをしの立場からまとめると分かるのか教えてください…! (下線... 続きを読む

26 0 つれづれぐさ 『徒然草』〈第百十五段〉 文法詳解図 内容を確認しよう! はぼろぼろ」に対する肯定的評価 は否定的評価 太字は終助詞・間投助詞 名 八四体名 格助 名 (筆者→仏) 四 宿河原といふ所にて、 名 格助サ四・用過去・体接助 名格助力変・完了・体 ぼろぼろ多く集まりて、 宿河原という所で、 九品の念仏を申しけるに、 九品の念仏を 外より入り来たる ぼろぼろが 大勢集まって、 唱え申し上げていたところ、外から 入って来た 副詞の呼応〈疑問〉 格助 名名格助 謙(しら梵字 →いろをし 四体 名 「係り結び(疑問) 春(しら梵字 名 ぼろぼろの、 いろをし サ四体 格助ナ下二・用過去・已接助 この御中に、 いろをし房と申す ぼろや ぼろぼろが、 おはします。 」と尋ねければ、そ ここにいる方々の中に、 いろをし房と 申し上げるぼろは 「もしや、 いをしが いらっしゃいますか。」と尋ねたので、 尊(いろをし 格助 名 格助 丁(いろをし 名 格助八四終 →しら梵字) 文末用法(強調) →「ぞ」の清音化 →しら梵字) ハ四体 係助 名 ※聞き手敬意の謙譲語 謙(しら梵字 いろをし 四体 格助 八下二・已接助 80 の中より、 「いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ。」と答ふれば、「しら梵字と申す の中から、(一人のぼろが)「いろをしは、 おります。このようにおっしゃるのは、どなたですか。」と答えると、 (私は) しら梵字と申す 謙(しら梵字 謙(しら梵字 ↓2から 名 格 名 謙(しら梵字 名断定終 名 →なにがし) 格助サ四・過去・体名 →いろをし →人) 名 格助 名 四体名 格助サ四・未受身・用過去・終格助ラ四川 者なり。己が師、なにがしと申しい人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承り 者です。 私の師匠で、 何某と 申し上げた方が、 東国で、 いろをしと 申し上げるぼろに殺されたと うかがっ 謙 (しら梵字 謙 (しら梵字 謙(しら梵字 →いろし) 名格助 名格助ハ四・用補ラ四・用接助 →いろをし →いろをし しら梵字は ナ下二・用補サ四・体定・終 格助ハ四終 過去 マ上二用補サ四・未経助格助ハ四・用接助 しかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり。」と言ふ。 いろをし、 たので、 その人に お会い申し上げて、 恨みを晴らし申し上げたいと思って、 尋ね申し上げたのです。」と (その者は言う。いろをしは、 尊(いろをし 丁(いろをし 謙(いろをし 梵字) しら梵字) 丁(いろをし 名 格助サ四用補ラ変・体推量・終 →しら梵字) 係助 ナ下二用補サ変・用完了終 →しら梵字) ラ変・過去・終 シク用 変体名 名 格助 サ変・袖ラ四・未接助 「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事 侍りき。ここにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。 「殊勝にも よく尋ねていらっしゃいました。そのようなことがございました。ここで お手合わせ申し上げれば、道場を 汚すことになるでしょう。 尊(いろし →わささしたち) 名 格係 ガ四用 補八四終格助 (尾) 聞き手敬意 謙(いろをし の謙譲語しら梵字) 名 格助名 格助ラ四・用八四・未意志・終 幹 前の河原へ参りあはん。 いづ方をもみつぎ 給ふ な。 あまたの あなかしこ、わきさしたち、 傍らに付き添う者たちよ、 参ってお手合わせしましょう。 決して、 どちらをも 加勢なさってはいけない。 大勢の 前の河原へ 丁(いろをし きさ ち) 四終 名 格助 名 格下二・用ハ四・用接助 マ下二・用接助 名 名 格助 名 断定用補ラ変体推量・終 格助ラ四・未接助 わづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし。」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行く 二人は、 出て 河原へ 立ち合って、 思う存分 話をつけて、 迷惑に なっては、 修行の 妨げでございましょう。」と →(あらむ) 1から 名 四体名 ク・体名 名係助用 過去・体断定・用係助 剛助 変・用完了・用過去・終 八四用 格助 接助 ばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。 ぼろぼろといふもの、 昔はなかりけるにや。近き世 ぼろぼろという者は、 近世に、 昔はいなかったのであろうか。 二人とも死んでしまった。 刺し違えて、 (省略) 名名定・用過去・体格助係助間助 名 格助夕下二・用完了・体格助力上一・川助 剛助 ハ四用過去・体名 格助 ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、 その始めなりけるとかや。 世を捨てたるに似て ぼろんじ・ 世俗を捨てたようでいて 梵字・ 漢字などと いった者が、 その起源であったとかいうことだ。 随筆 名 名 名 ここに 名 名 格助四体格助十上一・用接助 5 80 (Br =) < (5 名 そ 3 (省略) 格助 名 名 名 格助サ変・終 名格名 断定・巳接 名格助ク・サ愛用後助 我執深く、仏道を願に似 闘を事とす 放逸無意の有様なれども、死を軽くして、少しも 闘争を 仕事としている。 勝手で恥知らずの有様であるけれども、死を軽くみて、 執着心が強く、 仏道を 願うようでいて 少しも 副詞の呼応〈打消〉 四・未打消・体名 格助 丁(筆者→読み手) 格助 カ下二相変体新定・ ク用 ヤ下二 名格助四・過去・体 なづまざるかたのいさぎよくおぼえて、人の語りしままに書き付けるなり。 生に執着しないところが 痛快に 思われて、 人が話したとおりに 書き付けたのでございます。 2

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古文 高校生

解答、解説を教えてください🙇‍♀️

家 晋 読孫 貧。 恭 晋 盛。 不 雑。 数 常。 書。 康) 少 御 小。 火,夏 型,1 通平 31 -)現代語訳しなさい。 30も u食るとは深うない s 型 2)傍線③のような状態に、車胤はどのような方法で対応していたか。 清介…心や行いが正しく清らかである。 御史大夫…官職名。 やミ…: 車…回 家 無、油。常 素 問5 この話から生まれた故事成語は何か。 字…男子が成人した時につける呼び名。 親や超親しい友以外はその人を字 4 南 片 間6問5の故事成語の意味はどれか。 恭助夫修…まじめて勤勉で、学問を 意ることがない。 ア 人知も自然のカにはかなわないということ。 動 不、倦、 博 覧多 博覧多通…様々な書物を読んで、見間聞 が広く、多くの物事を熟知 G 苦労して学問にはげむこと。 ウ知識よりも経験を大事にすること。 地、想° 月、 則 JPS° 工 恵まれない境遇に負けないこと。 練養…練り絹で作った桜 以夜継日…夜から朝まで続けた。 m 問7 傍線○の「無」と、傍線@の「不」は、どちらも否定の句形で、おなじような意味だが、 書き下しの際「無」は漢字、「不」はひらがなに直すのはどうしてか。 「無」は終止形が「 間- 重要語 二重傍線部A.Bの読みを書け。 」となる [ 詞〕だから漢字で書く。 「不」は終止形が「 «[トさ 」となる 〔 詞〕だから平仮名に直す。 ト) 間2 句形傍線のについて次の問いに答えよ。 スペース余ったから世界史でも学習した諸子百家を復習しよう。漢文でもよく問われる。 -)書き下し文に直しなさい。 孔子 …「仁」(人間としての愛情·真心,思いやり)と「礼」(社会的な決まり)をわきまえた人物=徳の r 無 高い人物がその徳によって国を治める「徳治政治」を主張。当時の世には受け入れられなかったが、 後に国教の地位を獲得、中国思想の礎となる。 2)傍線ののような状態に、孫康はどのような方法で対応していたか 孟子…孔子の思想を受け継いて発展させた。孔子と同じく徳によって国を治める「王道政治」を主張 「性善説」を唱え、人の本性は善であると考えた。しかし、日々の暮らしの中で欲に目がくらみがち 間3 句形 傍線のはどのような意味か になるので、「王道政治」によって人民に礼儀を身に着けさせ、人間らしい社会を作ろうとした。 葡子…孔子の思想を受け継いだもう一人。荷子は「性悪説」を唱え、人間の本性は悪であるから、礼儀に ァ 決して人と遊ぶことはなかった。 ゥ 人と一緒に過ごすことが好きてはなかった。 間4 句形 傍線@について次の問いに答えよ。 友達付き合いも雑ではなかった。 よって人を導いて善に転化させる必要があると考えた。 工 交友関係があまり上手くなかった。

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古文 高校生

答えを教えてください国語便覧準拠ワーク17回

100 17一現代文 ーbめ く 島崎藤村 る 中原 中也 第7回|近現代の文学© 一 ] 次の短歌の作者を選択肢から選び、記号で答えよ。 <短歌·俳句》 くーメー) 日「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 回やは肌のあつき血潮にふれも見できびしからずや道を説く君 文中の( )にあてはまる適語を語群から選び、記入せよ。 3点×6〉 くれなの二尺伸びたる蓄散の芽の針やはらかに春雨の降る おちあいなおよみ 落合直文門下で、浪漫主義の影響を受けた(A )は継 E みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただに急げる 盤「(m )」を創刊した。(B)誌上では(A)の妻で ア与謝野品子 イ 斎藤茂吉 H 国子規県 ウ 情熱的で大胆な詠風の(C_] )が活躍した。また、 「写 e()8( 生」重視を掲げて改新を進めた(D )のもとには 回次の問いに答えよ。 正岡子規が「歌よみに与ふる書」の中で批判したわが国最初の勅 撰和 歌集は何か 5点×5> )、長塚節らが集まり、根岸短歌会と呼ばれた。大正 )岩 (9 く 時代に入ると、(D)の写実的な歌風を継承した(F 正岡子規の号にちなんで名付けられ、子規の死後は高浜虚子によって 主宰された俳句誌は何か が主流となった。 伊藤左千夫 正岡子規 高浜虚子 高浜虚子の写生説に満足できず、俳誌「馬酔木」を主宰したのは誰か 与謝野鉄幹 アララギ 心の花 中村草田男や加藤棋部のように人間の真実や心理を描こうという態度 の俳人を何派というか ゅうそん くめ 5点×5> 次の問いに答えよ。 3 明治三十四年に発表された与謝野晶子の処女歌集の名称を答えよ 戦後、俳句を「第二芸術」とし、俳句否定論を唱えた人物は誰か こ 。 えを a 三行書きのスタイルで生活を歌った、歌集「一握の砂」「悲しき玩具」 の作者は誰か 4点×4> 「白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ」が収めら れている「海の声」は誰の歌集か 次の俳句の作者を選択肢から選び、記号で答えよ 日海に出て木枯帰るところなし e耽美派の詩人でもある、歌集『桐の花」の作者は誰か 2分け入つても分け入つても青い山 当 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 桐一葉日当たりながら落ちにけり イ 高浜虚子 「死にたまふ母」の連作が収められている斎藤茂吉の歌集の名称を答 ニ 物に ウ 種田山頭火 H コロ編ト ア正岡子規

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