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現代文 高校生

なぜこの文章からナバホが子どもの自立を尊重し、ユダヤ人が子ども達を大人と同様に教育していることが分かるのか教えてほしいです。

自身の経験も異なってくる。 H. ( 1)、ナバホ・インディアンは子どもを自立したものと考え、部族の行事のすべ てに子どもたちを参加させる。子どもは、庇護されるべきものとも、重要な責任能力が ないものとも看做されない。子どもの言葉は大人の意見と同様に尊重され、交渉ごと で大人が子どもの代弁をすることもない。子どもが歩きだすようになっても、親が危険 なものを先回りして取り除くようなことはせず、子ども自身が失敗から学ぶことを期待 する。こうした子どもへの信頼は、われわれの目には過度の放任とも見えるが、自分と 他者の自立を尊重するナバホの文化を教えるのにもっとも有効な方法であるという。 (2)、東ヨーロッパの伝統的なユダヤ人コミュニティーでは、知識が豊かである ことは道徳的に正しいことであると考えられており、男児の(男児に限られていたが) 教育にたいへん関心が払われた。赤ん坊のちょっとしたしぐさも、知的早熟の兆しでは ないかと見られたし、五歳ごろにはもう正式の教育が始められた。幼児であっても、ほ 2 かの年齢の子どもに混じって週に五日間、午前八時から午後六時までの勉強が課せられ、 終生続けられるべき学問のための訓練が施された。

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現代文 高校生

現代文、要約の問題について質問です。 要約の解答例(写真三枚目)中盤に [それが我々が〜なっている。] と書かれている場所があるのですが、 本文(写真一、二枚目)を読むと 一枚目最後の 「この明白な〜一つとなっている」 の箇所と「同時に」という言葉で 「私たちが〜にもなって... 続きを読む

第4 例題 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。 私たちは、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚といった様々な感覚のモダリティを通して、 外界の様子や自らの身体の様子をつかみ取っている。それぞれの感覚のモダリティの中 では、モダリティ固有のクオリアが感じられている。 たとえば、赤のクオリアと緑のクオリア、金属光沢のクオリアはそれぞれユニークな 質感として意識の中で感じられるが、これらはまた全て「視覚」のモダリティに属する クオリアとして、明らかに共通の何かを持っているように感じられる。一方で、チョコ レートの甘さ、リンゴの甘酸っぱさ、唐辛子の辛さといったクオリアも、それぞれユニー クな質感として感じられるが、全ては「味覚」のクオリアとして何かしら共通の性質を 持っているように感じられる。 そして、「視覚」のクオリアと「味覚」のクオリアの間には双方を混同すべくもない 明らかな差があるように思われる。視覚でも、味覚でも、それぞれの感覚をつかさどる 脳の領域の神経細胞の一個一個には、基本的に差があるわけではない。それにもかかわ らず、神経細胞の間に結ばれる関係性を通して、まったく異なるクオリアが意識の中に 生み出される。この明白な事実は、脳と心の関係を考える上ではもっとも重要であると ともに、その背後にある原理を明らかにすることが難しい問題の一つとなっている。同 [標準解答時間25分]

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現代文 高校生

この問題の問ニの解説の意味がわからなくて納得いきません。ちなみに答えは技術の手先です。 そもそも、おのれの手先、技術の手先ってなんですか??

8 技術の正体 ※ われわれはこう教えられてきた。つまり、科学は人類の理性の産んだイダイな叡智である。もとも と科学は実用などとは無関係に、ひたすら物を冷静に見つめることから得られる無垢なBチェだった のである。 それをたまたま実生活に応用したのが技術なのであり、その意味では技術も間接的には理 性の所産である。人類の理性が産みだしたものを、人類が理性によってコントロールできないはずは ない。われわれ人類には、この程度のものを理性的にコントロールする力は十分あるはずだ、と。 だが、本当にそうであろうか。 人類の理性が科学を産み出し、その科学が技術を産み出したという、この順序に間違いはないのであ ろうか。しかし、ギリシアの詩人が不気味だと恐れていたのは、人類の理性の所産である科学技術など ではなく、ただの技術である。 科学が技術を産んだというのは間違いではないのか。むしろ、技術 が異常に肥大してゆく過程で、あるいはその準備段階で科学を必要とし、いわばおのれの手先として科 10 学を産み出したと考えるべきではないだろうか。 ※ ※ そして、その技術にしても、人類がつくり出したというよりも、むしろ技術がはじめて人間を人間た らしめたのではなかろうか。原人類から現生人類への発達過程を考えれば、そうとしか思えない。火 を起こし、石器をつくり、衣服をととのえ、食物を保存する技術が、はじめて人間を人間に形成した にちがいないのだ。 こうした技術に助けられて、その日暮らしの採集生活が可能だった熱帯・亜熱帯地方を離れ、寒冷な中 緯度地帯に進出することのできた原人が、明日を生きるために今日から準備しておかねばならない生活 のなかで、その時間意識にいわば過去や未来といった次元を開くことになり、 こうしてはじめてホモ サピエンスになりえたのだからである。 きょう 私が問題にしたいのは、技術は人間が、あるいは人間の理性がつくり出したものだから、結局は人間 20 が理性によってコントロールできるにちが ないという。アンイな、というより据傲な考え方である。 どうやら技術は理性などというものとは違った根源をもち、理性などよりももっと古いユライをもつ ものらしいのだから、悪性などの手に負えるものではないと考えるべきなのである。 LO 5 15 きだ 木田元

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現代文 高校生

2枚目P22ページの例えば、から何言ってるのかわかりません。 現代文得意な方詳しく説明願います

がした 可能 いわ * いや生全体に 二〇一七年度 第 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。 与えられた困難を人間の力で解決しようとして営まれるテクノロジーには、問題を自ら作り出し、それをまた新たな技術の開発 によって解決しようとするというかたちで自己展開していく傾向が、本質的に宿っているように私には思われる。 科学技術によっ て産み落とされた環境破壊が、 それを取り戻すために、新たな技術を要請するといった事例は、およそ枚挙にいとまないし、感染 防止のためのワクチンに対してウィルスがタイセイを備えるようになり、新たな開発を強いられるといったことは、毎冬のよう に耳にする話である。東日本大震災の直後稼働を停止した浜岡原発に対して、中部電力が海抜二二メートルの防波堤を築くことに よって、「安全審査」を受けようとしているというニュースに接したときも、同じ思いがリフレインするとともに、こうした展開に はたして終わりがあるのだろうかという気がした。 技術開発の展開が無限に続くとは、たしかにいい切れない。 次のステージにな にが起こるのか、当の専門家自身が予測不可能なのだから、先のことは誰にも見えないというべきだろう。けれども科学技術の展 開には、人間の営みでありながら、有無をいわせず人間をどこまでも牽引していく不気味なところがある。いったいそれはなんで あり、世界と人間とのどういった関係に由来するのだろうか。 けんいん 医療技術の発展は、たとえば不妊という状態を、技術的克服の課題とみなし、人工受精という技術を開発してきた。その一つ体 外授精の場合、受精卵着床の確率を上げるために、排卵誘発剤を用い複数の卵子を採取し受精させたうえで子宮内に戻す、といっ たことが行なわれてきたが、これによって多胎妊娠の可能性も高くなった。 多胎妊娠は、母胎へのフィジカルな影響や出産後の経 済的なことなど、さまざまな負担を患者に強いるため、現在は子宮内に戻す受精卵の数を制限するようになっている。だが、この 制限によっても多胎の「リスク」は、自然妊娠の二倍と、なお完全にコントロールできたわけではないし、複数の受精卵からの選択、 また選択されなかった「もの」の「処理」などの問題は、依然として残る。 いろう いずれにせよ、こうした問題に関わる是非の判断は、技術そのものによって解決できる次元には属していない。体外授精に比し より身近に起こっている延命措置の問題。 たとえば胃瘻などは、マスコミもとりあげ関心を惹くようになったが、もはや自ら食 事をとれなくなった老人に対して、胃に穴をあけるまでしなくても、鼻からチューブを通して直接栄養を胃に流し込むことは、か なり普通に行なわれている。このような措置が、ほんのその一部でしかない延命に関する技術の進展は、以前なら死んでいたはず の人間の生命をキュウサイし、多数の療養型医療施設を生み出すに到っている。 しかしながら老齢の人間の生命をできるだけ長く引き伸ばすということは、可能性としては現代の医療技術から出てくるが、現 実化すべきかどうかとなると、その判断は別なカテゴリーに属す。「できる」ということが、そのまま「すべき」にならないのは、 核爆弾の技術をもつことが、その使用を是認することにならないのと一般である。 テクネー (TEX(VM) である技術は、ドイツ語 Kunst の語源が示す通り、「できること(können)」の世界に属すものであって、「すべきこと (sollen)」とは区別されねばならない。 テクノロジーは、本質的に「一定の条件が与えられたときに、それに応じた結果が生ずる」という知識の集合体である。すなわ ち、「どうすればできるのか」についての知識、ハウ・トゥーの知識だといってよい。それは、結果として出てくるものが望ましい かどうかに関する知識、それを統御する目的に関する知識ではないし、またそれとは無縁でなければならない。その限りのところ それが単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由もある。 では、テクノロジーは、ニュートラルな道具だと、いえなくもない。ところが、こうして「すべきこと」から離れているところに、 ほうてき テクノロジーは、実行の可能性を示すところまで人間を導くだけで、そこに行為者としての人間を放擲するのであり、放擲され た人間は、かつてはなしえなかったがゆえに、問われることもなかった問題に、しかも決断せざるをえない行為者として直面する。 妊婦の血液検査によって胎児の染色体異常を発見する技術には、そのまま妊娠を続けるべきか、中絶すべきかという判断の是非 を決めることはできないが、その技術と出会い行使した妊婦は、いずれかを選び取らざるをえない。いわゆる「新型出生前診断」 3限目 問題文

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現代文 高校生

3枚目の写真の「つながらない」という説明、私にはつながっているように感じますが、どう繋がっていないのですか?

VEL-1 第2講 【問題】 『日本の一文 30選』 3 2 5 7 4 第2講 次の文章は「日本の一文30選』(中村明)の一節で、坂口安吾「桜の森の満開の下」の表現 について説明したものである。本文を読んで後の問いに答えなさい。尚、には誤記された語 句が一か所ある(問三)。 気のやさしい山賊が、しばらくいっしょに暮らしてきた女を背負って、満開の桜の森の 中に一歩足を踏み入れると、とたんに異様な雰囲気を感じる。振り返ると、背中の女が「ロ は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑」、「全身が紫色」で、「顔の大きな老婆」に見えた。 こ れは鬼だと思い、あわてて振り落とそうとするが、相手は落とされまいと咽喉にしがみつ く。その手に力がこもると、男は首が絞まって目の前が暗くなる。夢中で相手の首を絞め たらしく、気がつくと、女はすでに息絶えたのか、地面に横たわったまま身動きひとつし ない。 その場面で、作者の坂口安吾は、「彼の呼吸はとまりました。彼の力も、彼の思念も、す べてが同時にとまりました」と書き、「女の死体の上には、すでに幾つかの桜の花びらが落 ちてきました」と続ける。 ここでは、その直後に出てくる「彼は女をゆさぶりました。呼びました。抱きました。徒 労でした。彼はワッと泣きふしました。」という一節に注目したい。連続する五つの文はす べて短く、しかも、どの文間にも、接続詞がまったく使われていないのだ。どうして、こ んな形になったのだろう。 まず、この情報をすべて、たった一つの文にまとめてみよう。「彼は女をゆさぶって呼ん 1 だり抱いたりしましたが、徒労だったのでワッと泣きふしました」というふうに、全体を 一文にまとめたところで、全部で四〇字ほどにすぎず、小説の文の平均程度の長さにしか ならない。それをなぜ五つもの文に切り分けたのだろう。 短い文に切り離すにしても、「彼は女をゆさぶりました。 そして、呼びました。それから、 抱きました。しかし、徒労でした。それで、ワッと泣きふしました。」というふうに、接続 30 詞でつなぐ方法もある。それなのに、四つの文間のどの一つも、そういう接続詞でなぜ関 連づけなかったのだろうか。 実はこの二つの問いはたがいに連動しているのである。全体を一つの文にまとめるた めには、「ゆさぶる」 「呼ぶ」 「抱く」という三つの行動の時間的な前後関係や、それらと「徒 労」、その「徒労」と「泣きふす」との因果関係をきちんと認識し、原文では切り離してある 個々の文相互の意味関係を決定してかからなければならない。 「徹夜で勉強した」と「試験に失敗した」という二つの文を接続詞でつなぐ場合を想定し てみよう。多くの人は「しかし」「だが」「けれども」といった逆接の接続詞を想定するだろ う。が、反対に、 といった接続詞でつなぐ人もあるかもしれない。徹 や > 夜で勉強したのにそれでも失敗したと考えるか、徹夜なんかするから当日ぼうっとして失 30 敗するんだと考えるかという、人それぞれのとらえ方の違いを反映しているのだ。

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