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日本史 高校生

早稲田 2015年 法学部 日本史 過去問です 答えを教えていただけると嬉しいです😭😭

平城京と奈良時代の政治 2015 早大・法 天 次の文を読み、後の間に答えなさい。 710年、わずか16年で廃都された藤原京に代わり, 唐 長安城の強い影響を受けた平城京が新たな都となった。 平城京に都が置かれた時代を奈良時代と呼ぶ。 遣唐使が もたらした唐の先進的な文物の流入や諸制度の導入、あ るいは新羅Aとの交流によって国際色豊かな都の 文化が花開くとともに、律令制度に基づく中央集権的な 国家体制が実現した時代である。 以下では,平城京と 良時代の歴史を概観してみる。 人口10万人とも言われる平城京は、碁盤目状の街区で 構成される条坊を持つ計画都市だった。 長年の発掘調査 によって確認された遺構, あるいは 瓦・土器・木簡な ど様々な遺物の研究から, 平城京の様相が明らかになっ ている。 都市空間は中央を南北に貫通する朱雀大路によ って左京と右京に分かれ、 中央北詰には宮城があった。 宮城には天皇の居住空間である内 国家的儀礼の場で あるB や政務の場である朝堂院が置かれた。 また、 二宮八省の中央官庁も宮城内に配置されていた。 宮城に 近い部分にあたる京内の北側には 高位 族や貴族 の人が居住する面積の広い宅地があり、 南側には一般! 庶民の居住する小さく区切られた宅地が存在していた。 京内には巨大な寺院もを誇った。 都からは諸国へ向か う言道が敷かれ、中央と地方を結ぶ交通網が整備され た。 平城京遷都に尽力した藤原不比等は、 娘の宮子を文武 天皇の夫人とし、生まれた皇子が』聖武天皇として即位 するなど藤原氏が天皇家の外戚となる基礎を築いた。 不 比等の四子も、政界の首班であった長屋王を謀略によっ て自殺に追い込み, 不比等の子の光明子を皇后に立てる など天皇家との結びつきを更に強めた。 その後、天然痘 によって藤原四子が相次いで死去すると、 光明皇后の 異父兄である橘諸兄が玄昉・ 吉備真備を顧問として政権 を しかし,Cの乱が起こると政権は動揺 する。 し、740~744年の間、 聖武天皇は恭仁京, 難波京, 紫香 楽など遷都を繰り返した。 聖武天皇の娘である孝謙天皇の時代には、藤原仲麻呂 が台頭し、橘諸兄の子奈良麻呂を死に追い込んだ。 仲 麻呂は、舎人親王の子である淳仁天皇を擁立し, 恵美押 勝の名を賜って太師(太政大臣)となった。 しかし、孝謙 太上天皇が道鏡を寵愛して淳仁天皇と対立すると, 仲麻 呂は道鏡排除のため兵をあげるが近江敗死し、淳仁天 もされた。その後、重して再び即位した称徳天 皇が死去すると、天武の皇統は途切れ、天智系の光仁天 皇が即位する。 光仁天皇は、道鏡をDに追放して混 乱した政治を収拾し、財政再建をはかった。 そして、 光 ・仁天皇の皇子である桓武天皇は、天智系の新しい皇統の 基礎固めの一環として長岡京・平安京へと遷都を実施 し、平城京の時代は終わりを告げた。 (問) 1.空欄Aには、縞族を中心に中国東北部に建国され た国名が入る。日本とも交流があった,この国の名前 を漢字2字で記入しなさい。 2.下線aにある出土遺物の木簡に関連する次の記述の うち、誤っているものを1つ選びなさい。 あ、木筒とは文字を記した木札で, 古代においては紙 の文書と並ぶ一般的な情報伝達の手段だった。 い 水筒は都でのみ発見され、地方官衙では使用され なかった。 う、藤原宮から出土した木簡は,郡評論争決着の決め 手となった。 え、1961年の平城宮最初の木簡発見以来, 注目される ようになった。 お、平城京の長屋王邸からも発見され, 王家の日常生 活や家政機関の様相が明らかになった。 3.空欄Bには、天皇が出御する朝政や即位 大嘗祭・ 元日朝賀などの儀礼を行った建造物の名前が入る。 2010年に復原されたこの建物の名称を漢字3字で記 入しなさい。 4.下線bの皇族の宅地としては,左京三条二坊一・ 二・七人の4坪という広大な面積を占める長屋王邸 が知られている。長屋王に関連する次の記述のうち, 誤っているものを1つ選びなさい。 あ、藤原不比等の死後に左大臣となった。 い。妻は,草壁皇子の娘である吉備内親王である。 う. 祖父は、天武天皇である。 え、父は、壬申の乱で活躍した高市皇子である。 お仏教をあつく信仰し、法華寺を造営した。 5.下線cの古代の交通制度に関する次の記述のうち, 誤っているものを1つ選びなさい。 あ、官道には駅路と伝路があり、国家が管理した。 い。 駅路は東海・東山・北陸 山陰・山陽 南海 西 海の七道があった。 う. 平城京と国府を結ぶ路には、約16km ごとに駅 家が置かれた。 i え、 駅家には、駅馬と駅子が配され、 駅長が統轄し た。 お伝路は大寺院間を結ぶ地方道だった。 6.下線dの聖武天皇の在位中 (724~749年) の出来事と して、誤っているものを1つ選びなさい。 あ、 鑑真が東大寺に初めて戒壇を設けた。 い舎那仏の大仏造立を宣言した「大仏造立の詔」 が出された。 " う貧窮者孤児の救済施設である悲田院 病人への 薬治療施設である施薬院が設けられた。 え、堅田の永久私有を認めた法令である「墾田永年私 財法」 が発布された。 お、国ごとに国分寺・国分尼寺を設けさせる 国分寺 建立の詔」 が出された。 7.下線の藤原四子のうち、 南家を興し、藤原仲麻呂 の父として知られる人物は誰か。 正しいものを1つ選 びなさい。 あ、麻呂 武智麻呂う 房前え、種継 お字合 8.空欄Cには、大宰府に左遷されたことに強い不満を もち吉備真備 玄昉を排除しようと, 740年に九州 で挙兵した人物の名前が入る。 漢字4字で記入しなさ い。 9.下線fの称徳天皇が,765年に創建した寺院として 正しいものを1つ選びなさい。 あ 唐招提寺 い. 東大寺 西大寺 興福寺 お薬師寺 10. 空欄Dには,道鏡が別当として追放された古代寺院 の名称が入る。 東大寺 観世音寺とならぶ 「本朝三 壇」の1つとして知られるこの寺院の名称を, 漢字 5 字で記入しなさい。

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世界史 高校生

( )の部分が分かりません、、 至急教えて欲しいです🙇

5 古代ギリシア (2) 教科書 p.66 ☆ポリスの成立と発展 (1) ポリスとは何か? 城壁内部と周辺の農村を合わせた都市国家 前8C貴族のもと(アクロポリス (城山)) を中心に人々が集住 (シノイキスモス)して形成 麓には市民の活動(市場・集会など)を行う(アゴラ) (広場)が設けられた 周囲は城壁で囲まれ、 城壁の外側のクレーロス (市民の私有地)では作物を栽培 住民は(市民)(自由人)と(奴隷) ポリスは大小1000 以上あり、各ポリスは独立国家で、 ポリス間の対立抗争が多い ↓ 戦いながらもギリシア人としての同胞意識を共有 (仲間意識が強い)=自分たち... レネス ) || 異民族・バルバロイ) ex. オリンポスの12神やデルフォイのアポロン神の神託を信じる ・(オリンピア)の祭典を開く(前776年に始められる) (アテネ)(イオニア人の集住で成立) スパルタ(ドーリア人が先住民を征服して成立) I *スパルタ教育とは? なぜ? 厳しい子育て → 男子は7歳で合宿所に入り、集団生活・ 軍事訓練 ☆民主政へのあゆみ (1) アテネの政治はどのように変わったのか? (貴族)政→民主政 * なぜか? ※ポリスの政治の実権=「( 前7C~人口増加 土地不足などにより( )を担う者が政治も担う」 武器は自分で調達 )を建設して貿易を行う )王国から貨幣の製造も伝わり、ギリシアの商工業が発達 → 平民の富裕化 ※ギリシア人植民市 (シラクサ)マルセイユ(ネアポリス) ナポリ ・ビザンティウム ) - イスタンブルなど

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現代文 高校生

この暇と退屈の倫理学の問題が考えれば考えるほど分からなくなってしまったので、解説、解答してくだされば嬉しいです!お手数おかけしますがよろしくお願い致します🙇

R (H M 青 Jeg いるのである。 は社会主義革命の到来後の社会 以外の何に向かうのか。 に向かうのだろう。 余裕を得 しよう。そのときに私たちけ の講演 「民衆の芸術」で、 の盗人のように突然やってく。 モリスは、もしかしたら 起こそうかと考えている。 おもしろいのは、社会 だろうか。 者、ウィリアム・モリ 理学の試みは、 いかに生きるべ 殿の中で退屈し 国や社会が豊かになれば、そこに生きる人たちには余裕が生まれる。その余裕には少なくとも 一つ目はもちろん金銭的な余裕だ。人は生きていくのに必要な分を超えた量の金銭を手に入れ る。稼いだ金銭を全て生存のために使いきることはなくなるだろう。 二つの意味がある。 もう一つは時間的な余裕である。社会が富んでいくと、人は生きていくための労働に全ての時 間を割く必要がなくなる。 そして、何もしなくてもよい時間、すなわち暇を得る。 では、続いてこんなふうに考えてみよう。富んだ国の人たちはその余裕を何に使ってきたのだ ろうか。そして何に使っているのだろうか。 「富むまでは願いつつもかなわなかった自分の好きなことをしている。」という答えが返って きそうである。確かにそうだ。金銭的・時間的な余裕がない生活というのは、あらゆる活動が生 存のために行われる、そういった生活のことだろう。生存に役立つ以外のことはほとんどできな い。ならば、余裕のある生活が送れるようになった人たちは、その余裕を使って、それまでは願 いつつもかなわなかった何か好きなことをしていると、そのように考えるのは当然だ。 ならば今度はこんなふうに問うてみよう。その「好きなこと」とは何か。 やりたくてもできな かったこととはいったい何だったのか。今それなりに余裕のある国・社会に生きている人たちは、 その余裕を使って何をしているのだろうか。 「豊かな社会」、すなわち、余裕のある社会においては、確かにその余裕は余裕を獲得した 人々の「好きなこと」のために使われている。しかし、その「好きなこと」とは、願いつつもか なわなかったことではない。 問題はこうなる。「そもそも私たちは、余裕を得たあかつきにかなえたい何かなど持ってい! たのか。 少し視野を広げてみよう。 二十世紀の資本主義の特徴の一つは、"文化産業とよばれる領域の巨大化にある。 二十世紀の資 本主義は新しい経済活動の領域として文化を発見した。 もちろん文化や芸術はそれまでも経済と切り離せないものだった。芸術家だって霞を食って生 きているわけではないのだから、貴族から依頼を受けて肖像画を描いたり、曲を作ったりしてい た。芸術が経済から特別に独立していたということはない。 けれども二十世紀には、広く文化という領域が大衆に向かって開かれるとともに、大衆向けの 作品を操作的に作りだして大量に消費させ、利益を得るという手法が確立された。そうした手法 に基づいて利益を上げる産業を文化産業とよぶ。 「好きなこと」はもはや願いつつもかなわなかったことではない。それどころか、そんな願い なこと」を与えてもらっているのだから。 があったかどうかも疑わしい。 願いをかなえる余裕を手にした人々が、今度は文化産業に「好き 分の好きなことが何なのか分からない。 資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だ が、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自 そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提

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古文 高校生

忠度都落ちというプリンとなんてすが日記で読めばわかると言われました。ですが(3)、(4)が読み取れませんでした。わかる方いますか?

エキスパートB 一一八三年一月××日 ●日記を読んで次の問いについて考察しよう。 今日もたくさんの弟子が私を訪ねてきた。 平家一族が栄華を極めるいま、貴族社会では和歌が盛んだ。私は和歌の として、平家一族をはじめ、多くの人に和歌を教えてきた。私の息子である定家と家隆も和歌の才能が開花し、今 おおいに活躍してくれるだろう。 一一八三年 二月××日 弟子の うれしいことがあった。なんと、あの後白河上皇が「千載集」という勅撰和歌集をおつくりになるそうだ。私はその撰者 に任命された。息子の定家の助けを借りながら歌を選ぼう。九八九年以降の優れた歌を掲載するのが私の役目だ。 一一八三年 五月××日 大事件だ。源義仲が率いる源氏の兵士達が、平氏の支配する都に攻め込んでくるそうだ。私の弟子には平氏がいる。 都と平家一族はどうなってしまうのだろうか。いやいや、私たちだって例外ではない。都の五条京極に住んでいる以上、 戦乱に巻き込まれる可能性はある。 世の中が乱れ、勅撰和歌集の制作は中断せざるをえないだろう。 一一八三年 六月××日 平家一族は都から逃げ落ちることが決まったそうだ。平家は、支配下にあった機関や家を焼きはじめた。攻め込んで くる源氏が、家財を略奪するのを防ぐためだそうだ。しかし、黒い噂も聞こえてくる。どうやら平家は関係のない家 にまで火を放っているそうだ。私の家も警戒せねば。平家に目をつけられないよう、門を固く閉ざしておこう。 一一八三年 七月××日 とうとう源義仲が都に攻め入ってきた。 平家一族は都から去り、逃げているところだろう。 源氏に捕まれば殺されて しまう。私の弟子たちは無事だろうか。 あの平忠度という弟子、いまは平家のために命懸けで戦っているが、平和な時 代に生まれれば、優れた歌人として歴史に名を残したであろうに。惜しいが、もう会うこともできないだろう。これか らは源氏の時代だ。 一一八三年 八月A日 家中が騒がしい。どうやら誰かが訪れてきたようだ。平家と関わると源氏からどんな罰を受けるか分からない。平家 (教科書本文と史実に基づいていますが、この日記はフィクションです。) の者ではないといいが・・・ 1「都」とはどこか。 現在の都道府県名で答えよう。 富山県京都 この日記を書いたのは誰か。どこに住んでいるか。 現在の都道府県名で答えよう。 藤原俊成 京都 BA月4日に書き手を訪ねてきたのは誰か。教科書本文を参考に書こう。 この日記の書き手は、平氏に対してどのような気持ちを抱いているか考察しよう。

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古文 高校生

黄色のマーカーをした「かく」の意味がどうしても分かりません。誰か解説してくださるとありがたいです!

11 ひきでもの 次の文章は、「沙石集」の一節である。ある時、相手を闘で決め、お互いに引出物をすると災難を逃れられるということが流 行したが、ある貴族の邸で、恩賞を受けたこともなく、蓄えもないために貧しい侍(夫)が、主人(上)の相手になってしまっ た。以下は、侍が自分の不運を嘆き、いっそのこと出家してしまおうと妻に語ったところからはじまっている。これを読んで、 後の問に答えよ。 (注2) (注1) くわほう さいは (#) せんせ ま みうち (注3) やち この妻申しけるは、「その事ならば、などか嘆き給はむ。人は果報も幸ひも心にこそあれ。ついでに世を厭はむと思はむに付 きても、すでに御相手になりぬ。尋常なる御引出物をも参らせてこそ、御内をも罷り出で給はめ。 先世の契りあればこそ夫妻と もなりて、今日まで、心ざし変はらずして過ごしつらめ。惑はば共にこそ感はめ。 この屋地なんどあれば、質換へて営み給へ」 といふに、夫申しけるは、「果報拙くして、今まで御恩も蒙らねば、思出もなくて、年頃日頃過ごしつるだにも、心苦しくかた (注7) ひ つたな (注6) かぶ はらいたきに、我ゆゑわ御前さへ惑ひ給はむこそ口惜しければ」と言へば、「などかくは思ひ給はむ。事のついでに、共に法 (注9) ぜんちしき ごせぼだい 師にもなりて、後世菩提の勤めせば、善知識とこそ思ひ奉らめ。これほどのある甲斐なき世間は、惑ふとても嘆くにも足らず」 と言ひければ、心ざしの色、誠に浅からず見えける上は、「さらば、ともかくも、女房のはからひにこそしたがはめ」とて、屋 (注1) くわん しろかね しき こがね たちばな くわいちゆう 敷を売りて、用途五六十貫がほどありけるにて、銀の折敷に金の橘を作らせて、ことごとしからぬやうに、紙に包み、懐中し て、すでにその日になりぬ。 'Dam' (13) なにがし (注1) はうばい 御所へ参りぬ。さて面々に、相手に色々の引出物をしけり。 「いかに、某は上の御相手に参りて、その用意ありや」と傍輩ど も問ひければ、「いかでか用意 仕らざらむ」と言ふ。「いかばかりの事かし出だすべき」とて、目引き口引き、顔をそばめて ぞをかしげに思ひ合ひける。 ごぜん すでに懐より、紙に包みたるものを取り出だして、御前に置きけるを、「させる事あらじ」と思ひて、かつがつ笑ふ者もあり けり。さて御前に置きたるを、引き広げて見給ひければ、銀の折敷に、 F つと (注10) c~ (SAF) くじ まど か いと

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