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世界史 高校生

社会苦手なので教えて欲しいです よろしくお願いします

■列伝に見える 『史記』 の特徴③ 貨殖 (かしょく) 列伝 「貨殖(かしょく)」 の 「貨」は財貨のこと、 「殖」 は増えるという意味です。 そこで「貨殖」 は財産を作って金持ちになった人々の伝記ということになります。 前近代社会では、 お金を稼ぐことは賎(いや) しいこととされました。 そのため 「士・農・ 工商」 と言われるように、 商人は一番下の身分です (この言葉も本来は中国の言葉)。 キリスト教世界においても同様に金儲けは残しいこととされました。 司馬遷はそのような蔑視された人々も評価して、 彼らの伝記を書いたわけです。 事例 2 を読んで下さい。 事例2: 『史記』貨殖列伝 曹の氏 りんしょく そ はな おきて 魯の国の人の習わしは倹約と (物惜しみ) であった。 曹の那氏は、ことに甚だしかった。 製鉄で富を作り、巨万の富みに達した。 けれども家人は父や兄から子や孫まで、 みな家の掟を守り、 「下を見たら物を拾え、上を見たら何か取れ」 というのであった。 その貸し金と取り引き先はいろんな 地域にゆきわたっていた。 そういうわけで鄒や魯の地方では、学問をやめて営利に走るものが多くな ったのは、曹の那氏の影響である。 ここで一つ目のポイントをまとめておきます。 ① 『史記』 の本紀には、 皇帝になっていない人物の伝記が記載されている。 ② 『史記』 の列伝には、 官僚以外の様々な身分の人々の伝記が記載されている。 次ぎに司馬遷の価値観・思考について、 彼に対する批判を参照しながら確認していきます。 3. 司馬遷の価値観 ■班固 (はんこ)の司馬遷批判 司馬遷の 『史記』 の特徴で見たように、 『史記』 には皇帝になっていない自分の伝記があ ったり、官僚以外の人々の伝記が記されていました。 とくに 『史記』 が社会の底辺の人々 や蔑視された金持ちの人々の伝記を書いたことについては、後世の歴史家によって批判 されています。 ここでは後漢(ごか) の歴史家、 班固 (はんこ) の批判を見ておきましょう。 班固 (はんこ) は前漢 (ぜんかん) 王朝の歴史を記した『漢書(かんじょ)』の著者です。 そ のため、 班固は前漢の人である司馬遷の伝記も書いています。 その一部が下の事例3で す。 8 事例3: 斑固の司馬遷評価 班固『漢書』 司馬遷伝 すこぶ 『史記』の歴史批判は頗る聖人のそれに反している。 道を論じては老子の思想を優先させて、 ①儒 ゆうきょう 家の経典を後回しにしている。 ② 遊侠の列伝を書いては民間の学徳ある人を退け、 姦雄 (悪知恵のず ひんせん ちじょく ば抜けている者)を称えている。 ③ 貨殖の列伝を記しては利を尊重し、 貧賤を恥辱としている。 これ が 『史記』 の弊害である。 ろうし *老子: 道家思想を創始したと言われる人。 自然をたっとび人為的な道徳・ 学問などを否定した。 事例3では、 班固は司馬遷が ①儒学を軽んじていること ② 遊侠列伝を書いたこと ③貨殖列伝を書いたこと を批判しています。 このうち貨殖列伝は、さきほども紹介したとおり金持ちになった人々の伝記でした。 お 金を儲けることは、洋の東西を問わず前近代社会において軽蔑の対象となる行為であっ たわけです。 その点で班固の批判は、 前近代社会では当然とも言えます。 ■司馬遷の意見1 一方、司馬遷は自ら遊侠列伝や貨殖列伝を書いた理由を述べています。 下の事例4 を読 んで下さい。 事例4: 『史記』 太史公自序 ゆうきょう ① 遊侠 列伝について 苦難にある人を救い、金品に困っている人を援助するということでは、仁著(仁愛の人)も学ぶ 点があり、信頼を裏切らず、 約束に背かないということでは、 義人 (正義の人) も見習う点があろう。 「ゆうきょう そこで遊侠列伝を作る。 ② 貨殖列伝について 官位を持たない全くの平民でも、政治の害にならず、 人々の活動を妨げることもなくて、 うまい時 機を見はからい物の売買をし、 それでもって富を増やす。 知恵のある人は、 そこから得るところがあ るだろう。 そこで貨殖列伝を作る。 *太史公自序: 司馬遷が 『史記』 の列伝の中で書いた自分自身の伝記。 事例4で司馬遷は、 遊侠の人や金持ちの人商人からも、それぞれ学ぶべき点があると 述べています。 つまり司馬遷は彼らに対する偏見を持たず、 独自の視点から遊侠の人や 金持ち 商人の事跡についても記録する価値があると考えたわけです。 9

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世界史 高校生

優しい方教えて欲しいです。 よろしくお願いします

■列伝に見える 『史記』 の特徴③ 貨殖 (かしょく) 列伝 「貨殖(かしょく)」 の 「貨」は財貨のこと、 「殖」 は増えるという意味です。 そこで「貨殖」 は財産を作って金持ちになった人々の伝記ということになります。 前近代社会では、 お金を稼ぐことは賎(いや) しいこととされました。 そのため 「士・農・ 工商」 と言われるように、 商人は一番下の身分です (この言葉も本来は中国の言葉)。 キリスト教世界においても同様に金儲けは残しいこととされました。 司馬遷はそのような蔑視された人々も評価して、 彼らの伝記を書いたわけです。 事例 2 を読んで下さい。 事例2: 『史記』貨殖列伝 曹の氏 りんしょく そ はな おきて 魯の国の人の習わしは倹約と (物惜しみ) であった。 曹の那氏は、ことに甚だしかった。 製鉄で富を作り、巨万の富みに達した。 けれども家人は父や兄から子や孫まで、 みな家の掟を守り、 「下を見たら物を拾え、上を見たら何か取れ」 というのであった。 その貸し金と取り引き先はいろんな 地域にゆきわたっていた。 そういうわけで鄒や魯の地方では、学問をやめて営利に走るものが多くな ったのは、曹の那氏の影響である。 ここで一つ目のポイントをまとめておきます。 ① 『史記』 の本紀には、 皇帝になっていない人物の伝記が記載されている。 ② 『史記』 の列伝には、 官僚以外の様々な身分の人々の伝記が記載されている。 次ぎに司馬遷の価値観・思考について、 彼に対する批判を参照しながら確認していきます。 3. 司馬遷の価値観 ■班固 (はんこ)の司馬遷批判 司馬遷の 『史記』 の特徴で見たように、 『史記』 には皇帝になっていない自分の伝記があ ったり、官僚以外の人々の伝記が記されていました。 とくに 『史記』 が社会の底辺の人々 や蔑視された金持ちの人々の伝記を書いたことについては、後世の歴史家によって批判 されています。 ここでは後漢(ごか) の歴史家、 班固 (はんこ) の批判を見ておきましょう。 班固 (はんこ) は前漢 (ぜんかん) 王朝の歴史を記した『漢書(かんじょ)』の著者です。 そ のため、 班固は前漢の人である司馬遷の伝記も書いています。 その一部が下の事例3で す。 8 事例3: 斑固の司馬遷評価 班固『漢書』 司馬遷伝 すこぶ 『史記』の歴史批判は頗る聖人のそれに反している。 道を論じては老子の思想を優先させて、 ①儒 ゆうきょう 家の経典を後回しにしている。 ② 遊侠の列伝を書いては民間の学徳ある人を退け、 姦雄 (悪知恵のず ひんせん ちじょく ば抜けている者)を称えている。 ③ 貨殖の列伝を記しては利を尊重し、 貧賤を恥辱としている。 これ が 『史記』 の弊害である。 ろうし *老子: 道家思想を創始したと言われる人。 自然をたっとび人為的な道徳・ 学問などを否定した。 事例3では、 班固は司馬遷が ①儒学を軽んじていること ② 遊侠列伝を書いたこと ③貨殖列伝を書いたこと を批判しています。 このうち貨殖列伝は、さきほども紹介したとおり金持ちになった人々の伝記でした。 お 金を儲けることは、洋の東西を問わず前近代社会において軽蔑の対象となる行為であっ たわけです。 その点で班固の批判は、 前近代社会では当然とも言えます。 ■司馬遷の意見1 一方、司馬遷は自ら遊侠列伝や貨殖列伝を書いた理由を述べています。 下の事例4 を読 んで下さい。 事例4: 『史記』 太史公自序 ゆうきょう ① 遊侠 列伝について 苦難にある人を救い、金品に困っている人を援助するということでは、仁著(仁愛の人)も学ぶ 点があり、信頼を裏切らず、 約束に背かないということでは、 義人 (正義の人) も見習う点があろう。 「ゆうきょう そこで遊侠列伝を作る。 ② 貨殖列伝について 官位を持たない全くの平民でも、政治の害にならず、 人々の活動を妨げることもなくて、 うまい時 機を見はからい物の売買をし、 それでもって富を増やす。 知恵のある人は、 そこから得るところがあ るだろう。 そこで貨殖列伝を作る。 *太史公自序: 司馬遷が 『史記』 の列伝の中で書いた自分自身の伝記。 事例4で司馬遷は、 遊侠の人や金持ちの人商人からも、それぞれ学ぶべき点があると 述べています。 つまり司馬遷は彼らに対する偏見を持たず、 独自の視点から遊侠の人や 金持ち 商人の事跡についても記録する価値があると考えたわけです。 9

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世界史 高校生

どなたか優しい方この課題教えてもらえませんか? よろしくお願いします。

■列伝に見える 『史記』 の特徴③ 貨殖 (かしょく) 列伝 「貨殖(かしょく)」 の 「貨」は財貨のこと、 「殖」 は増えるという意味です。 そこで「貨殖」 は財産を作って金持ちになった人々の伝記ということになります。 前近代社会では、 お金を稼ぐことは賎(いや) しいこととされました。 そのため 「士・農・ 工商」 と言われるように、 商人は一番下の身分です (この言葉も本来は中国の言葉)。 キリスト教世界においても同様に金儲けは残しいこととされました。 司馬遷はそのような蔑視された人々も評価して、 彼らの伝記を書いたわけです。 事例 2 を読んで下さい。 事例2: 『史記』貨殖列伝 曹の氏 りんしょく そ はな おきて 魯の国の人の習わしは倹約と (物惜しみ) であった。 曹の那氏は、ことに甚だしかった。 製鉄で富を作り、巨万の富みに達した。 けれども家人は父や兄から子や孫まで、 みな家の掟を守り、 「下を見たら物を拾え、上を見たら何か取れ」 というのであった。 その貸し金と取り引き先はいろんな 地域にゆきわたっていた。 そういうわけで鄒や魯の地方では、学問をやめて営利に走るものが多くな ったのは、曹の那氏の影響である。 ここで一つ目のポイントをまとめておきます。 ① 『史記』 の本紀には、 皇帝になっていない人物の伝記が記載されている。 ② 『史記』 の列伝には、 官僚以外の様々な身分の人々の伝記が記載されている。 次ぎに司馬遷の価値観・思考について、 彼に対する批判を参照しながら確認していきます。 3. 司馬遷の価値観 ■班固 (はんこ)の司馬遷批判 司馬遷の 『史記』 の特徴で見たように、 『史記』 には皇帝になっていない自分の伝記があ ったり、官僚以外の人々の伝記が記されていました。 とくに 『史記』 が社会の底辺の人々 や蔑視された金持ちの人々の伝記を書いたことについては、後世の歴史家によって批判 されています。 ここでは後漢(ごか) の歴史家、 班固 (はんこ) の批判を見ておきましょう。 班固 (はんこ) は前漢 (ぜんかん) 王朝の歴史を記した『漢書(かんじょ)』の著者です。 そ のため、 班固は前漢の人である司馬遷の伝記も書いています。 その一部が下の事例3で す。 8 事例3: 斑固の司馬遷評価 班固『漢書』 司馬遷伝 すこぶ 『史記』の歴史批判は頗る聖人のそれに反している。 道を論じては老子の思想を優先させて、 ①儒 ゆうきょう 家の経典を後回しにしている。 ② 遊侠の列伝を書いては民間の学徳ある人を退け、 姦雄 (悪知恵のず ひんせん ちじょく ば抜けている者)を称えている。 ③ 貨殖の列伝を記しては利を尊重し、 貧賤を恥辱としている。 これ が 『史記』 の弊害である。 ろうし *老子: 道家思想を創始したと言われる人。 自然をたっとび人為的な道徳・ 学問などを否定した。 事例3では、 班固は司馬遷が ①儒学を軽んじていること ② 遊侠列伝を書いたこと ③貨殖列伝を書いたこと を批判しています。 このうち貨殖列伝は、さきほども紹介したとおり金持ちになった人々の伝記でした。 お 金を儲けることは、洋の東西を問わず前近代社会において軽蔑の対象となる行為であっ たわけです。 その点で班固の批判は、 前近代社会では当然とも言えます。 ■司馬遷の意見1 一方、司馬遷は自ら遊侠列伝や貨殖列伝を書いた理由を述べています。 下の事例4 を読 んで下さい。 事例4: 『史記』 太史公自序 ゆうきょう ① 遊侠 列伝について 苦難にある人を救い、金品に困っている人を援助するということでは、仁著(仁愛の人)も学ぶ 点があり、信頼を裏切らず、 約束に背かないということでは、 義人 (正義の人) も見習う点があろう。 「ゆうきょう そこで遊侠列伝を作る。 ② 貨殖列伝について 官位を持たない全くの平民でも、政治の害にならず、 人々の活動を妨げることもなくて、 うまい時 機を見はからい物の売買をし、 それでもって富を増やす。 知恵のある人は、 そこから得るところがあ るだろう。 そこで貨殖列伝を作る。 *太史公自序: 司馬遷が 『史記』 の列伝の中で書いた自分自身の伝記。 事例4で司馬遷は、 遊侠の人や金持ちの人商人からも、それぞれ学ぶべき点があると 述べています。 つまり司馬遷は彼らに対する偏見を持たず、 独自の視点から遊侠の人や 金持ち 商人の事跡についても記録する価値があると考えたわけです。 9

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世界史 高校生

課題で、教科書を参照にと書いてあったのですが全く書いてなく分からないので分かるところを教えていただければ嬉しいです。また、出来ればその単語の意味も分かれば教えていただけるとありがたいですm(_ _)m

1、東アジア世界· 内陸アジア世界の風土 中国の(中国)文明→東アジア世界や内陸アジアへも影響及はす 中国沿岸部から朝鮮·日本… (季節風) (モンスーン)の影響を受ける湿潤気候 )地帯 モンゴル高原… (モンゴル ) /中国東北部…( ユーラシアの東西交易路 複雑に絡んで国家体制を作る )がおさえる 「草原の道」= ( )が活躍 「オアシスの道」=オアシス都市の( 2、中国と内陸アジアの国家体制 *BC6000年ごろ…( )が成 )流域で農耕始まる→BC16世紀ごろ( )が中国統一:皇帝による中央集権国家体制に 朝鮮| 内陸アジア 立→BC3 世紀末( 中国平原部 ベトナム地域 世紀 日本 中国東北部 勾奴 前漢 BC2 弥生 8 新羅 ウイグル 潮海 唐 奈良~平安 遼(契丹) 宋(北宋) 李朝/チャンバー 11 平安 高麗 陳朝 13 鎌倉 元(モンゴル) 明 ベトナム(察朝) 室町 朝鮮| モンゴル(雑報) 清 18 江戸 3、東アジアを結ぶもの~漢字と儒教 )…殿の時代には甲骨文字→漢末に稽書 →日本の( )…政治哲学→漢の時代に国家の学問へ→宋代の( )やベトナムの( )(チュナム) )が周辺諸国へ影響与え 4、東アジアの国際秩序 (親 )関係系……中国に定期的に使者を送り、貢物を献上する代わりに中国から産物を得る (竹判):中国の臣下の国扱い→中国中心の国際秩序の形成 *ヨーロッパのン自由貿易と軌→( ベトナムの宋主権を、( 序の崩壊 5、東アジアの中の日本 *4世紀…( 大和判延 )による国家統一く古墳時代>→中国に使者を送る *7世紀~(適怖使)(達問使 ) の派遣により、 文化や制度を導入 *9世紀末に遣唐使の廃止→ ( 大 )文化の隆盛 *17世紀~江戸幕府は(外父 ) 政策でキリスト教の禁教と貿易統制を強める )(1840~42)、( )(1884~85) )(1894~95)で朝鮮の支配権を失う=D東アジアの国際 500

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世界史 高校生

このプリントの答えを教えてください!

8 東南アジアの諸文明 動p.62~65 p17~18 1 つぎの文の( )に適語を入れ,波線部ア)~カ) に該当する領域を地図から記号で選べ。ま た,下線部O~⑤についての問いに答えよ。 東南アジア世界は大陸部と諸島部から構成される。大陸部では前2千年紀末に, ベトナムやタイ東 の日 北部を中心に青銅器の製作が始まり, 前4世紀になると, 中国の影響下に①独自の文化が発達した。 後1世紀末には東南アジア最古の国家とされる( 1 )がメコン川下流域に建国され, ②インドやロー マとの交易で繁栄した。 また2世紀末,ベトナム中部に, チャム人がア)チャンパーを建国した。 4世紀末以降,東南アジアでは③「インド化」と呼ばれる諸変化が生じた。6世紀にはメコン川中 流域にクメール人によってイ)カンボジアがおこり, (1 ) を滅ぼした。 この王国は,( 2 )に都を おき,独自の様式をもつの寺院などを造営した。 イラワディ川下流域では, 9世紀までビルマ(ミャンマー)系のウ)ピュこ人の国があった。11世紀 には(3 )朝がおこり, スリランカとの交流により上座部仏教が広まった。 チャオプラヤ川下流域で は,7世紀から11世紀頃にかけて( 4 )人によるエ)ドヴァニラヴァえイニ王国が発展し, 上座部仏 教が盛んだった。また, 13世紀半ばにタイ北部におこったスコータイ朝でも上座部仏教が信仰された。 ts ス ラ ベトナム北部は,前漢時代以来中国に服属していたが,11世紀 初めには(5)氏が大越(ダイベト)国を建国し,( 5 )朝を成立 させ,さらに13世紀には(6)朝がおこった。 文 ペンガル湾 諸島部でも「インド化」 がすすみ, いくつかの王国が成立した。 7世紀半ばには,スマトラ島の( 7)を中心にオ)シュリーヴィ ジャヤ王国が成立した。中部ジャワでは, 仏教国のカ)シャイレ ンドラ朝やヒンドゥー国のマタラム朝がうまれた。シャイレンド ラ朝のもとでは,⑤仏教寺院が建造されたが、その後,ヒンドゥ 6 南シナ海 レベス海 インド洋 ジャワ海 ー教の勢力が強くなっていった。 あこの文化を何というか。 また, ①特有の青銅器は何か。 問の 問の (1 )の貿易港をひとつあげよ。 また, ①買易を裏づける出土品もひとつあげよ。 問「インド化」をとおして受容されたものを二つあげよ。 問の この寺院として正しいものを, 下の~Cからひとつ選び, その名称を答えよ。 問の この仏教寺院として正しいものを, 下の囚~Cからひとつ選び, その名称を答えよ。 こ 11 2 3 4 5 6 7 ア) イ) ウ) エ) オ) カ) の のあ の記号 名称 6記号 名称 |O

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世界史 高校生

至急ことプリントの答えが欲しいです! どなたかお願いします! すみません!

子=)ァ ①⑪ W Rモアッスト 67 Z2 店牧民とオアシス民 ジア世界の展開 GR26 アレフリフト 北アョテ N フサンドロ 5還に ジア (モンゴル高原 画 5 パラ ス大王, インダス河本に吉征 | 前4c でスキタマ)文化を学び強大化 戦 加139 前漠の使 | OO 則 前2c未 前 り 押聞合による銘皮計備 か と 思便手の時代…全期 軸 129 前江の芝 対人開始和. 東 Ph 引 東西に分 | 西域痢護に着任 東名 南北に分腰 2 )朝下でガンダーラ美術了盛 |a| 156 モンゴル高原太一 el 399 中国億(法呈)のインド旅行(412) 卑| 4c 華北に進出して北精建国 本 6c ササン朝,突際と結んで(エフタル)を制圧 |各| 5c モンゴル高原に建国 北魏と対立 層 で ソグド)人, サマルカンドを中心に活動 |寺| 552 理還 ーー 629 中国僧玄甘)のインド旅行(645) |原] 583 東西に分裂 上 648 唐,オアシス都市の便釣に安本都護府を設置 | 744 東突原を渡して建国 9 |環 (" 751) タラス河畔の戦い プ| 8 赴の("受史)の乱で唐に援 唐 9 ウイグル人.オアシス地域に定着 ル| 840 キルギスの侵入で減選 呈| 875 イラン系サーマーン)朝建還 契| 9l6 (豆 (大祖)が憲(懇丹(キタイ)旭還穫| 940頃 トルコ系カラハン)朝建国 月| 004 北宋との注消の盟 AO トルコ人の("イスラーム)化が進む 女| Il5 ('完顔向骨打)が金建国 宋 1132 石刻(カラェキタイ)の建国 算| il2627 靖応の変で北宋を減ぼす 回 1219 チンギス=ハンの西方遠征(一25) 誠 1206 チンギス=ハン,モンゴル高原統一 宙 13c マルコ=ポーロの東方旅行 |選| 1271 フビライ=ハン,国号を元(大元ウルス)とする 73 内陸アジアの地形 73 8 : (① (⑦)ー()の地名を答えよ。 0 : (②) 一の交易路は。 中国から之ばれた商品にちなんで何とよばれるか。 ァ 高原 : (3 アム川・シル川間のオアシス都市を中心に。 古くから隊商交易で活躍した : イラン系民族を何というか。 g 出馬 : 。) 半細法西伝のきっかけとなった※印の戦い (751年) を何と2が ウゥ 高原 : 工 (市名) : オ 山脈 : @② 8 ⑬ : ④⑨ : (GO : 74 74 遊牧民族史 ユーラシケ大陽北方の( ⑩ )地葵で。 導衝生活を人党麻生民族は。はやく : 果 から近降の農耕社会交渉をもち, 東西交渉の歴史の上で大きな役割を果たし : てきた。 前 7 世紀頃。 中央アジアから南ロシアにかけて勢力をもったイラン系 : ② といわれる[上人]は. 特色ある青仙器六化を形成したが, モンゴル高原で 間4 世紀頃からこの丈化の虹響を受けた[B_]が強大化した。 LB_]は @戦国時代。 徐・漠時代の中国北辺を導かしたが, 前漢( ② )帝の討伐によ : り半選し。 その後 2 度の分再をおこした。 [の革後。 双萌の中国保入を経て5 世紀になると。 モッ 錠がcモンゴル高原を支し。 五崩の一つで華北を統一した遊履民| 明である北現と対立した。 突現したが, 6世紀中順 わられることとなった。 れ。 北朝の中国議朝に 策によって東西に分裂した。 8 世紀中頃。 トルキスタンで東[| D |を江ほしたトルコ系の 0 チベットの( ④ )とともに, 力を加えた。 |は。 西方族国と唐を介する東西交易の利を得ながら,仏 : 教や( ⑨ )教 1 中国立化を大きく取り入れた。8世 : 和末頃から部族の苑散によって壮えた結果。 9 世紀に同じトルコ系のキルギス : ・ に波ほされ, 東トルキスタンに世れてイスラーム化した。 (0) |に適する民族名を答えよ。 (② 1. この時代に| B |の攻撃や支配を受けた民族を次のアーオから2つ にNR ッ ァ多入 イェフタル ゥ明 ェ欠 ォ此 2前200年に前光を破った[| B |の指導者は誰か。 (3) 分裂した| B |の一部がヨーロッパに送ったとする説があるが, 彼らは ヨーロッパで何とよばれたか。 の王: ⑪ その後。和柔伏は中央アジアに進出し, 広大な領域を : A に置いていたトルコ系の[| D |に取って代* 導衝民で初めて独自の文字をもったとき を与えたが。やがて階を建てた( ③ )大の区

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