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日本史 高校生

問1の答えあっていると思いますか?答えがないので教えて頂きたいです。

第7問 災害史 日本列島は自然豊かであると同時に、自然災害ともつねに背中合わせの歴史を歩んできた。 災害に関する下の問い (問1~4)に答えよ。 問1次のグラフと表は、古代の飢饉の原因について、『続日本紀」などを基にデータをまと めたものである。 これらを見て、 下の問い (1) (2) に答えよ。 グラフ 表 8% 256%- 679年 ~791年 1000年 - 1099 F 1150年 ~1200年 158 1200年 ~1299年 日本紀』に記載された干ばつ、風雨 地震災害 煌害の件数と比率 全国計 近畿 東海 山陽・四国 東北 (出羽・ 陸奥) 関東 173 45% 31.3% 133 50 52 RE SORELL - THIE 降雨 寒冷 高温 59 67 24.7% 4.2% 28.0% 52 35 21.1% 42 3.9% 16.3% 85 10.8% 14 10 13.5% 24 21 [] 干ばつ | 風雨地震・災害蝗害 14.5% 87 31% 見益吉郎(1979) 日本紀に見ると京都大学学会誌による。 10 154 56% 121 乾燥 104 43.1% 55 33.1% 51.8% 377 47.7% 15.3% 198 41 73 1280年 1350年 60.7% 4.3% 12.6% 22.4% 72 4 13%- 28.0% 207 26.2% 計 239 166 257 790 5 16% 326 6 19% 16 52% (1) グラフと表から読み取れることを説明した文XYについて,その正誤の組合せとし て正しいものを、 下の①~④のうちから一つ選べ。 X 飢饉の原因について地域による差異はなく、どの地域でも干ばつが最も多い理由であ った。 Y 飢饉の原因は気候変動に左右されるため、年代によっては大きく異なる。 4 X-E Y-E @ X-IE Y一誤 ③ X 一誤 Y-E X誤 Y一誤 (2) 次の文章はある地域の風土記のものである。 この風土記が記された地域を下のX・Y から、その理由として最も適当なものを下の①~④のうちから一つ選べ。 「霖雨に遭はば、即ち苗子の登らざる歎を聞き, 亢陽に遭はば,唯 穀実の豊稔なる よんこな 歓をみむ」 3 地域 X 出雲 理由 常陸 長く雨が降ることを喜んでいるため、干ばつの飢饉が多い東日本の風土記であると判 断できるから。 長く雨が降ることを喜んでいるため、長雨による飢饉が多い西日本の風土記であると 判断できるから。 日照りが続くことを喜んでいるため、長雨による飢饉が多い東日本の風土記であると 判断できるから。 日照りが続くことを喜んでいるため、干ばつの飢饉が多い西日本の風土記であると判 断できるから。 問2 次の資料は18世紀に起きた江戸時代で最大の飢饉の様子を記録したものである。これ を読み. 下の問い(1) (2)に答えよ 資料 出羽陸奥の両国は、 常は豊穣の国迫しが、 此年はそれに引かへて取わけての不熟 にて、南部津軽に至りては余所よりは甚しく (中略)元より貧しき者共は生産の 手だてなく. 父子兄弟を見棄ては我一にと他領に出さまよひ嘆き食を乞ふ されど. 行く先へも同飢饉の折からなれば、他の人には目もかけず. 一飯あたふる人も なく日々に千人. 二千人流民共は餓死せし由 又出行事の叶ずして残り留る者 は食ふべき物の限り食ひたれど、後々には尽果て先に死たる屍を切取喰ひしま (後略)。 ( 『後見草』) (1) 資料に描かれている地域を地図のアイから選び、資料から読み取れる内容をウエ から選んだ場合、その組合せとして最も適当なものを、下の1~4のうちから一つ選べ。 A 地図 内容 ウ地域のなかには豊かな収穫があった地域も存在したため、 他領からきた困窮化した人 びとに食事を恵むことがあったことがわかる。 エ貧しくても他領に移動できない人びとのなかには屍さえも食すほど飢餓に苦しむ人び ともいたことがわかる。 59

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日本史 高校生

問7です。2で合ってますか?答えがないので教えてください🙇‍♀️

C 14世紀後半に朱元球はモンゴル民族の支配を排非し, 漢民族による王朝である明 を建国した。明は中国を中心とする国際秩序の回復をめざし, 近隣諸国に通交を よびかけた。これに応じて。足利義満は明に使者を派遣し, 国交を開いた。 また 15世紀前半に建国された琉球王国も, 明や日本と国交を結ぶとともに, 盛んに貿 易を行った。 日明貿易において日本船は中国の寧波に入港し, 北京へおもむいて交易を行 った。この貿易では朝貢の形式がとられており, 滞在費 運搬費なども明が負担 したため,日本側の利益が大きかった。 問6 下線部Oの人物について述べた文として誤っているものを, 次の①~①のう ちから一つ選べ。 20 京都に将軍邸である花の御所を建てた。 2/幕府に反抗した鎌倉公方の足利持氏を追討した。 分裂が続いていた南北朝の合体を実現した。 Q山名氏一族の内紛に介入して勢力を削減した。 問7 下線部のについて述べた次の文X· Yについて, その正誤の組合せとして 正しいものを,下の0~0のうちから一つ選べ。 21 x) 遺明船には, 勘合の持参が義務付けられた。 * 寧波の乱以降, 日明貿易は全面的に中止された。 0 x 正 Y 正 (2/x 正 Y 誤 ④ x 誤 Y 正 ④ x 誤 Y 誤

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日本史 高校生

問2が分かりません。xの線を引いた所があっているのか違っているのか教えてください🙏

第4問 古代から中世の社会や経済に関する次の文章A·Bを読み,下の問い(問 1~7)に答えよ。 (史料は, 一部省略したり,書き改めたりしたところもある。) (配点 20) A 8世紀前半, 政府は田地の不足を補い,収入を増加させるために一連の土地政 策を行った。その結果, 開盟がすすみ田地は増加したが、 初期荘図が生まれる 契機ともなった。さらに9世紀になると政府内でも、,大宰府の ア の官田といった直営の田を設置して,財源の確保につとめた。やがて、在地の開 や,畿内 発領主は自らの。地位を保全したり税の負担を逃れようとしたりして中央の貴族 や寺社などに所領を寄進するようになり、11世紀頃には寄進地系荘園が各地に広 まった。以後,寄進地系荘園は傾関家や皇室の重要な財政基盤となり,後白河法 皇が自身の持仏堂に寄進した イなど,11世紀から12世紀にかけて皇室や摂 関家が持つ膨大な荘園群が形成された。 12世紀末,鎌倉幕府は荘園や公領の土地の管理権、治安維持権のほか徴税権を 持つ地頭の設置を朝廷から認められた。13世紀前半に起こった承久の乱で幕府側 が勝利すると,地頭はより広範囲に設置されるようになったが,各地で。土地や 収益をめぐって荘園領主と地頭との間での紛争が絶えなくなった。こうして荘園 支配の様相は大きく変化していった。 問1 空欄 ア イ に入る語句の組合せとして正しいものを,次の0~の のうちから一つ選べ。 22 ~0ア ロ分田 イ 長講堂領 ア ロ分田 ア 公営田 ィ 八条(女)院領 3ア 公営田 イ 長講堂領 イ 八条(女)院領 問2 下線部のについて逃べた次の文X·Yについて,その正誤の組合せとして正 しいものを,下の0~0のうちから一つ選べ。 X 本人·子·係の三代にかぎって私有が認められた荘園であった。 Y 付近の農民や浮浪人などを使用して経営が行われた。 0 x 正 Y 正 X 正 Y 誤 X 試 Y 正 X Y 誤

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日本史 高校生

問6と問7を教えて欲しいです🙇‍♀️

C 中国大陸では, 6世紀後半に北朝からおこった陥が中国を統一し, 周辺諸国に も大きな影響力を持つ大帝国となった。ヤマト政権は, 遺路使を派遣し,途絶 えていた中国との国交を開き, 中国文化の摂取に努めた。 陥末の混乱を抑えて再統一を実現した唐は,国内体制を確立すると国城を拡大 させ大帝国をつくりあげた。遺唐使を派遣し, 唐との国交を開いたヤマト政権は, 唐との交流のなかで, 唐の政治制度を導入し,律令制度成立へと歩み始めた。 遣唐使には留学生や学問僧も参加しており, さまざまな先進的な文物や政治 制度を学んで帰国した。 間6 下線部のに関して, 遺南使について述べた次の文X.Yについて, その正誤 の組合せとして正しいものを, 下の0~0のうちから一つ選べ。 20 X 階使に鞍作鳥が任命され, 南淵請安などの留学生も随行した。 小野妹子が持参した国書に対し, 陥の場帝は不快感を持った。 2 x 正 Y 誤 0 X 正Y 正 3 X 誤 Y 正 の) X Y 誤 問7 下線部Oについて, 遺唐使とそれに随行した留学生 学問僧について述べた 文として正しいものを, 次の①~①のうちから一つ選べ。 ① 唐から帰国レた玄防や吉備真備は, 桓武天皇に重用された。 2 遺唐使の航路は, 初め南路であったが, 後に北路に変更された。 ③ 学問僧として唐にわたった空海は密教を学んで帰国し, 真言宗を開いた。 0犬上御田鍬の建識により, 遺唐使は停止され, 以後派遣されなかった。 21

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日本史 高校生

問3が分かりません。教えてください。

第2問 鎌倉·室町幕府の政治に関する次の文章A~Cを読み, 下の問い(問1~ 7)に答えよ。(配点 20) A 源頼朝の死後、次の北条氏略系図に記載された人物たちが幕府政治を主導した。 そして,承久の乱後の鎌倉幕府は, 3代執権の時期に合議制に基づく政治体制が 確立した。 執権政治の隆盛をもたらした3代執権の政策は、 孫の5代執権北条時順に受け 継がれた。その具体的な政策として新たに アを任命し,御家人たちの所領 に関する訴訟を専門に担当させ,迅速で公正な裁判の確立につとめた。 一方,13世紀前半にユーラシア大陸では東西にまたがる大帝国が建設された。 モンゴルの支配は広城に広がり, 地方的政権もつくられた。相続争いを経て即位 ィを全面的に服属させた。 したフビライ=ハーンは,後に国号を元と定め, フピライは日本に対してたびたび朝貢を強要してきたが,幕府の8代執権北条時 宗がこれを拒否したため,。元が大軍を率いて二度にわたり襲撃してきた。 この頃から御家人社会に広がった不満や動揺をしずめるためにも得宗専制政治 が強化されていった。 北条氏略系図 政子 経時 時政 義時 甲 時氏 時頼 時宗 乙 高時 時房

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