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日本史 高校生

日本史なんですが色々な人物や似てる言葉などが多くてとてもわからないです! 日本史お得意の方どうかお願いいたします🙇🏻‍♀️ 2枚目は右の図の拡大したやつです

【2】 律令国家の形成と古代文化の展開について,次の各問いに答えなさい。 (P24~33) (I)次の文章の空欄に適する語句を答えなさい。 ・3世紀後半ごろ, 近畿地方から瀬戸内海沿岸各地に( ① )と呼ばれる大きな墳丘を持つ古墳が つくられるようになった。 ・4世紀初めには,古墳をつくった各地の王が大和地方の王を盟主として( な連合体を形成していたと考えられる。 盟主となった王は,のちに( ③ ・5世紀前半には大阪平野に誉田御廟山古墳や ( のよ ②)といわれる政治的 )と呼ばれた。 に圧迫 しら 新か を維持 下には うな巨大な古墳がつくられた。 は墳丘の全長 486m, 日本最大の前方後円 構を 勢力を した。 96年 対立 ・右図の( ⑤ 墳である。 (2) 次の文章の空欄に適する語句を答えなさい。 ・5世紀ころ, 日本には,朝鮮や中国から移住してくる( ① ) が増え、彼らは様々な新しい技術を伝えた。 STAN ・6世紀には,大陸から, 記録に役立つ文字である(②)や、人の心に平安をもたらす(③) も伝わった。 (3) 次の文章の空欄に適する語句を答えなさい。 こ畿内の有力豪族により構成された政権で,血縁に基づく政治的集団である氏と,地位や身分を表す称 した ユカ 築 築に 号である姓によって秩序立てられた政治機構を( ① )という。 ・5世紀末以降大陸の墓制の影響を受け古墳が変質し,(② ②)があらわれた。 また, 民俗信仰が展 開し、人々はけがれをはらい神々の意向を知ろうと太占や ( ③)などの呪術も行った。 (4) 次の文章の空欄に適する語句を答えなさい。 ・6世紀末, 物部氏を倒し政権を握った大臣( ① )は,(②)とともに国政改革を開始した。 やがて中国に ( ③)が送られるようになり途絶えていた国交が回復した。 国内では人材登用や外 交上の必要性から( ④ が、天皇中心の国家秩序確立のため官僚としての心構えを豪族たちに 説く(⑤)がそれぞれ定められた。 ・(②)が建立した( ⑥ )は、仏教文化といわれる ( ⑦ )を代表する寺院である。

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日本史 高校生

問5の論述答え見てもよく分からないので教えて下さい

問 23 応安の半済令・応永の乱 問 □(1) A 次の史料を読み、下記の問いに答えよ。 なお, 史料の表記は便宜上, 改めたとこ 京都大(改) ろがある。 寺社 本所領のこと (注) (b) 禁裏・仙洞の御料所, 寺社一円の仏神領, 応安元六十七 (中略) (a) かつて 本所領は,しばらく半分を相分ち, (c) 分の掠領を致さば, り。 殿下渡領など,他に異なるの間, きょうこう 半済の儀あるべからず。 固く武士の妨げを停止すべし。 そのほか諸国の を雑掌に沙汰し付け, 向後の知行を全 いらん うせしむべし。 この上,もし半分の預り人、あるいは雑掌方に違乱し,あるいは過 レベル ア A/標準 ア B / 標準 解答別冊 P50 (中略) 次に (e) 先公の御時より,本所一円知行の地のこと、今さら半済の法と称して、改 動すべからず。もし違犯せしめば、その咎あるべし。 (注)「応安元」とは、応安元年, 1368年のことである。 一円本所につけられ, 濫妨人に至っては, 罪科に処すべきな (d) には,荘園などの土地そのものを意味する漢字2字が入る。その語を記 tepe [B] せ。 □(2) 下線部(a)の「禁裏」とは、本来ある地位についている人物の居所を意味した が転じてその人物自身の意味に用いられる。 どのような地位か。 □ (3) 下線部 (b) 「殿下」 は, 摂政・関白を意味する。 この前年に退任した北朝の 関白で,連歌にもすぐれていたのは誰か。 □(4) 下線部 (c) の 「半済」が1352年に実施されたのは, 3ヵ国であった。 そのうち, 京に最も近い国名を記せ。 □ (5) 論述 下線部 (d) の 「一円本所につけられ」るとは、守護方の不法に対する 処罰である。 どのような措置か, 簡単に説明せよ。 [編集部注:解答欄は1.2cm×13.5cmの枠〕

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日本史 高校生

金禄公債証書の公債ってどういう意味ですか?

省 住 7871( 太平民 にも では、 きん 御用金の上納や軍役の徴用 をはかる見返りとして一部を解放したが、 幕府の崩壊により解放は中断した。 新政府は,四民平等のたてまえや外国への体裁, 民間からの建議などもあって 1871 (明治4)年8月, 今後は,賤民の身分・職業を平民と同様に取り扱ういわゆ る解放令を布告した。 政府が解放令を出したことの意義は大きかったが, それにみあう十分な施策は られなった。政府は1873 (明治6)年に希望者に対して秩禄の支給をとめるかわり ほうかん に一時金を支給する秩禄奉還の法を定め, さらに1876(明治9)年にはすべて 10 せんみん めに, 賤民 おこなわれなかった。 そのため、結婚や就職などでの社会的差別は続いた。また、 従来は彼らに許されていた特定の職種の営業独占権がなくなり、逆に兵役・教育 の義務が加わったので,これらの人びとの生活はかえって苦しくなった。 よって, 男女の差別はあったが,同じ義務をもつ国民が形成された。 しかし、政府は華族士族に対して,額を減らしたが依然として家禄を支 おうせいふっこ しょうてんろく 給し,王政復古の功労者には賞典禄を与えていた。この家禄と賞典禄をあ ちつろく わせて秩禄というが, その支出は国の総支出の約30%を占めて大きな負担と きんろくこうさいしょうしょ はいとうれい の受給者に年間支給額の5~14年分の額の金禄公債証書を与えて秩禄を 全廃した (秩禄処分)。 ここに、同年の廃刀令とあわせて, 士族はおもな特権 を奪われた。 じゅさん 族授産の道を講じたが, 成功した例は少なかった。 じゅん 小禄の士族が受けとった公債の額はわずかであったから、菅吏 祉・教員などに転身できなかった多くの士族は生活に困り,公債を元手にな れない商売に手を出し, 失敗して没落したものも多かった(「士族の商法」)。 このような士族に対して,政府は事業資金の貸付や, 北海道開拓事業など士 円ほどで (明治9)年の公債の額は,華族が1人平均6万円余りであったのに対し, 士族は1人平均500 緑の少ないものほど、緑の割に多額で利率が高い公債証書を受けとったが, それでも1876 国強兵 265

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