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金禄公債証書の公債ってどういう意味ですか?

省 住 7871( 太平民 にも では、 きん 御用金の上納や軍役の徴用 をはかる見返りとして一部を解放したが、 幕府の崩壊により解放は中断した。 新政府は,四民平等のたてまえや外国への体裁, 民間からの建議などもあって 1871 (明治4)年8月, 今後は,賤民の身分・職業を平民と同様に取り扱ういわゆ る解放令を布告した。 政府が解放令を出したことの意義は大きかったが, それにみあう十分な施策は られなった。政府は1873 (明治6)年に希望者に対して秩禄の支給をとめるかわり ほうかん に一時金を支給する秩禄奉還の法を定め, さらに1876(明治9)年にはすべて 10 せんみん めに, 賤民 おこなわれなかった。 そのため、結婚や就職などでの社会的差別は続いた。また、 従来は彼らに許されていた特定の職種の営業独占権がなくなり、逆に兵役・教育 の義務が加わったので,これらの人びとの生活はかえって苦しくなった。 よって, 男女の差別はあったが,同じ義務をもつ国民が形成された。 しかし、政府は華族士族に対して,額を減らしたが依然として家禄を支 おうせいふっこ しょうてんろく 給し,王政復古の功労者には賞典禄を与えていた。この家禄と賞典禄をあ ちつろく わせて秩禄というが, その支出は国の総支出の約30%を占めて大きな負担と きんろくこうさいしょうしょ はいとうれい の受給者に年間支給額の5~14年分の額の金禄公債証書を与えて秩禄を 全廃した (秩禄処分)。 ここに、同年の廃刀令とあわせて, 士族はおもな特権 を奪われた。 じゅさん 族授産の道を講じたが, 成功した例は少なかった。 じゅん 小禄の士族が受けとった公債の額はわずかであったから、菅吏 祉・教員などに転身できなかった多くの士族は生活に困り,公債を元手にな れない商売に手を出し, 失敗して没落したものも多かった(「士族の商法」)。 このような士族に対して,政府は事業資金の貸付や, 北海道開拓事業など士 円ほどで (明治9)年の公債の額は,華族が1人平均6万円余りであったのに対し, 士族は1人平均500 緑の少ないものほど、緑の割に多額で利率が高い公債証書を受けとったが, それでも1876 国強兵 265

回答

✨ ベストアンサー ✨

教科書に記載されている通り、秩禄が政府の財政を圧迫してますので、対策が必要です。

まず、秩禄奉還の法です。「秩禄の支給を無くすけど、一時金あげるよ」ってやつです。ただ、希望制でしたので、自ら今後秩禄が貰えなくなるような取引には応じる人は中々いません。つまり、失敗です。

なら、次は強制力を持たせます。金録公債証書の発行です。秩禄奉還の法の強制ver.になります。「金録公債証書与えるから、秩禄は無くします!」って感じです。

ここで、武士たちに支給するのを一時金にしてしまうと、出回るお金の量が増えてインフレを招いてしまいます。よって、金録公債証書というチケットを配布します。このチケットの価値はお金と同じなので、実際にはお金と大差ありません。

政府の思惑としては、一時的には手元に資金がある状態なので、そのお金で仕事を探して自分で稼いで欲しいというのもありました。しかし、元武士ですので、商売なんて上手くできるはずもなく、没落していきます。(士族の商法)

ここの内容は感じになります🙏
分かりにくいところがあれば言ってください🙏

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