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「ここはいづくぞ」と、御供の人々に問ひ給へば、「(注!) 雲林院と申す所に侍る」と申すに、御耳とどま
りて、宰相が通ふ所にやと、このほどはここにとこそ聞きしか、いづくならんと、ゆかしくおぼしめ
して、御車をとどめて見出だし給へるに、いづくもおなじ卯の花とはいひながら、垣根続きも(注2) 玉川
の心地して、ほととぎすの初音も心尽くさぬあたりにやと、ゆかしくおぼしめされて、夕暮れのほ
どなれば、やをら葦垣の隙より、格子などの見ゆるをのぞき給へば、こなたは仏の御前と見えて、(注3)
闘伽棚ささやかにて、(注4) 妻戸・格子なども押しやりて、(注5) 樒の花青やかに散りて、花奉るとて、か
らからと鳴るほども、このかたのいとなみも、この世にもつれづれならず、後の世はまたいと頼も
し
あぢきなき世に、か
かしこのかたは心にとどまることなれば、うらやましく見給へり。
くても住ままほしく、御目とまりて見え給へるに、童べの姿も あまた見ゆる中に、かの宰相
のもとなる童べもあるは、ここにやとおぼしめせば、御供なる兵衛督といふを召し給ひて、「宰相の君
はこれにて待るにや」と、対面すべきよし聞こえ給へり。驚きて、「いかがし侍るべき宮の、これまで尋
入らせ給へるにこそ。 かたじけなく侍り」とて、②いそぎ出てたり。仏のかたはらの南面に、おまし
などひきつくろひて、入れ ⑩奉る。
うち笑み給ひて、「このほど尋ね聞こゆれば、このわたりにものし給ふ など聞きて、これまで分
入り心ざし、おぼし知れ」など仰せらるれば、「げに、かたじけなく尋ね入らせ給へる御心
ざしこそ、かたはらいたく侍れ。(注6)老い人の、限りにわづらひ
ふびん
ⓔ侍るほどに、見果て侍らんとて、籠もり」など申すに、「さやうにおはしますらん、不便に侍り。そ
の御心地もうけたまはらんとて、わざと参りぬるを」など仰せらるれば、内へ入りて、「かうかうの仰
せ言こそ侍れ」と聞こえ給へば、「さる者ありと御耳に入りて、老いの果てに、かかる めでたき
御恵みをうけたまはるこそ、ながら待る命も、 ③ 今はうれしく、この世の面目とおぼえ侍れ。つて
ならでこそ申すべく待るに、かく弱々しき心地に」など、たえだえ聞こえたるも、いとあらまほしと聞
き給へり。
人々、のぞき見奉るに、はなやかにさし出てたる夕月夜に、うちふるまひ給へるけはひ、似るもの
なくめでたし。山の端より月の光 の かかやき出てたるやうなる御有様、目もおよばず。艶も色も
こぼるばかりなる御衣に、直衣はかなく重なれる あはひも、いづくに加はれるきよらにかあらん、
この世の人の染め出だしたるとも見えず、常の色とも見えぬさま、文目もげにめづらかなり。 わろき
だに見ならぬ心地なるに、「世にはかかる人もおはしましけり」と、めでまどひあへり。げに、 姫君に
並べまほしく、④笑みゐたり。宮は、所の有様など御覧するに、ほかにはさまかはりて見ゆ。人少なく
あやめ
みい
ひやうまのかみ
しめじめとして、ここにもの思はしからん人の住みたらん心細さなど、あはれにおぼしめされて、
そぞろにものがなしく、 御袖もうちしほたれ給ひつつ、宰相にも、「かまへて、かひあるさまに聞こえな
し給へ」など語らひて帰り給ふを、人々も名残多くおばゆ
(注)
雲林院都の郊外にあった寺。姫君は上とともにこの寺の一角にある寂しい庵で暮らし
ている。
2 玉川の心地して卯の花の名所である玉川を見るような心地がして。
3 開伽棚 仏前に供える水や花などを置くための
出入り口に付ける両開き板戸
仏前に供えられることの多い植物。
4 妻戸
5
6老い人ここでは、尼上を指す。