武分弟世 持洞」
北国 生 か子峨さ寺宗道 経三深万が年国る吉
をの “算“支前 遊県°け
次 分どりな
は 宿
後家になりぞこなひ
えい
雀景拝みめぐりて下向すれば、乙は存中の里、越の海道には家居すぐれて
構をみがき軒をならべ、煙寛なる町づくり目だちけるに、人箔の女袖にすが
b、日ははや七つにさが る、と引き込みけるに、いづNp 一夜の仮りまくら、
旅の寝覚めの淋しく、明日のタベの里までの事、命はしれぬ行末思ひっぃけ
* Sらゃ
て明かしかねたるに、あるじの物語るをきけば、此の所分銅町曾根薬屋甚九
郎とて、はじめは裏店かりて草履をつくり、鍋取り売るなど、誰しらざるも
越の国
のなし。されどもその身一代にかせぎ出し、俄分限となり、今は三ヶ所の家
屋敷蔵、肩をならぶるものなく、その弟甚助·甚七も、幼少より国里隔て売
えし
られけるを呼び返し、手代分に家を治め、日にまして栄行く末の頼もしかり
しに、さしつぎきの弟甚助、兄にかはりて万しどなく、 商売そ 乙~になして、
収り
ど
しかも色好みなるより、商ひ事にかこつけ三国の湊へ通ひ初め、二度の節季
の帳前たびどとに三五の十八、はらりと違ひて次第ましの不足、積れば大き
にあくところありて、甚九郎もたび~意見するに聞き入れず。 はや彼の所
初川といへるを請け出すにきはまりしと、脇より是を告げしらせた るにたま
りかねて、内証勘当して追ひ出しければ、外に停むかたもなく、哀れにさま
4 5く
ょひ歩きしを、母の不便まさり、甚九郎が目を忍びて死なぬ程のみつぎして、
るたはら
同じ所の側に裏店からせて置きぬ。かくて年月かさなり、ある時甚九郎つれ
づれなる雨の日淋しく、日頃将基好きにて、むつかしき詰物の図を案じける
なが
程に、朝の四つより七つ半まで詠め入り、さても今合点がいた、これで詰む
S他
ものを、と吐息つきながらうめきける音したるに、何事と女房かけ付けて見