学年

教科

質問の種類

作文 高校生

この文章で小論文を書くとき、否定してもいいんですか。? わがままになっているわけではない など、、

600 問 次の文を読み、あなたの考えを 400字以内で述べなさい。 一般に、先進国はしつけの能力が低下しているといわれています。そのために子どもの非行や 学級崩壊、あるいは子どもの犯罪が増えているという結果にもなっています。これはアメリカなど でも同じです。また、児童虐待が日本でもきわめて増えつつあることなどを考えても、母親のしつ けの能力が低くなっていることは容易に想像がつきます。(中略) 日本は戦争体験を経たと同時に、戦後の貧しさを嫌というほど味わいました。その頃に結婚し た世代、この「第一世代」は現在五十代となった私の父母に相当します。(中略) 第二世代は私のような昭和ニ十年代生まれ、あるいは団塊の世代です。この第二世代が親に なると、ようやく子ども、つまり「第三世代」に物をたくさん与えることができるようになりました。時 代は高度成長に向かいつつあり、食べ物や衣服に事欠くことはなかったからです。 戦後ずっと、私たち第二世代は、物がないという貧しさを嫌というほど味わってきました。それだ けに、ようやく物の不足から解放された喜びは相当なもので、その喜びを一拳に表すかのように、 第三世代に対してさまざまなオモチャや服、食べ物を浴びるように与えたのです。それによって、 第二世代の両親自身が「自分は子どもに思う存分の喜びを与えることができるほど裕福になった」 ことを実感し、大きな喜びとしたわけです。しかし、なんでも与えたということが、実は後に子どもた ちの欲望のコントロールを失わせることになるとは、彼らも気づきませんでした。 したがって、日本人の感情の抑制力が低下した、共感性が低下した、対人関係の能力が低下 したというのは、この第三世代あたりからのことです。小さいときになんでも与えられ、少子化の波 が押し寄せてきて子どもに多大な教育投資が行われるようになり、子どものわがままさが顕著に なっていきました。 第二世代の親が第三世代に与えに物質的な豊かさというものは、自分がどんなに望んでも得 られなかったものです。自分が望んでも手にできなかった反動として、 子どもにつぎ込むのですか ら、どうしても冷静さや良識に欠けた、ただ与えるだけ、ただわがままを許すだけの家庭教育に傾 きがちになります。そこには当然、しつけという要素が欠けています。 しかし、本来、親の役目とは「愛情を与えるだけのもの」ではありません。愛情を与えるとともに しつけもしっかりと与え、そのバランスによって社会に出ていくことができる子どもに育てるというの が本来の姿のはずです。第二世代には、残念ながら、こうした冷静な判断能力が欠如した親が多 かったわけです。 今や第三世代は青年の段階に入っていますが、こうした第二世代のしつけの結果、彼らの多く は対人関係の能力も低く、感情のコントロールの能力も低く、共感性も低いという特徴が顕著に見 られるようになり、さまざまな問題がふりかかってきています。 はたして第四世代でこの反省が行 われるのか、親と子が妥当な愛情関係に戻るのかどうかが今後注目されます。 かくて日本は、敗戦をきっかけとした大きな家庭教育の変貌というものが子どものわがままさを 生み出し、さらには家庭内暴力や不登校、 引きこもりといった問題、青少年犯罪の増加·凶悪化と なのていな1 も結びついていると考えることができます。 町沢静夫著「心の壊れた子どもたち」より 二学 保健学部 60分 全学部共通)

回答募集中 回答数: 0
作文 高校生

小論文です。 他の人の意見も聞きたいので、書いて欲しいです。

関 下選の交意を有み、下線部の内容について説明しかさい。その上で、コンピューター社会に おける、知職を身につけることと充実した生活を送ることとのパランスのあり方についでの、あ なたの考えを、具体例を挙げながら、述べなさい。 (800 定以内)。 明治の話だが、日角戦争のあったことも知らず、旬明王完した学者がいて、世人はそれを学 間の権化のよう た。人象石の穫では、そうい う人たちによって守られると誤角した。生活 おすくなければすくないほど人間として価値があるという敗え方である。象末の聞には生活がか くで、ただ知識の残半あるのみ、ということを落加基の社会は知らない。 おくれているのである。 徹夜で知強するのは、体によくない、とか角独の効率がよくない、などとは考えないで美化 る。 わけもわからず、こともや若者が、必要もない微放の外強をしで得意にな り、まわりはそれ を悪いとは考えない。 大人や生活を吾定することが、知的であるような氏覚をちっている。硬の間、ぶらぶらしてい て、夜になると、析に向かっで、原策用紙を埋めるのをえらいことのように才える広士、区二志 時者が、病に倒れると、名准の由芋のように見る常隊が生まれて、あたら地則を失った人があら われる。 学問や圭術を喜すものは、モノ やカネのことを考えるのは不宙である一一そういう通念にしば られで、 破滅型の人問を美化する。丈学育年がそう して條を食うような生き方を考える。 堅実 生手をある人たちは内刷、おかしいとは考えながらゃも、向下信仰に達上してその仁に思い及ばな いい。 人則は知議のために生き るのではない。よりよく生きるためにある程度の知識、 技術が必要な のである。 知華追求知議東息の考えにとり つかれていると、人はそのことを忘れるらしい。生 きるために知る必要があることを無視して、知るために生きるのお高等だという、おかしな考え にとりつかれ、それが死に至る病になることも知らぬかのようである。 役に立つかどう かも考えない。 知識は、もともと、そんなにありがたいものではない、いくら 豆が多くても、充実した人生を証きることができるという保証はない。 (中路) 「。 知識信名に風大をあけるものがあらわれた。ニンピューターである。二丁世紀 すでに半選紀以上たっているのに、コンピューターの人に及ぼす形等ははっ ない。 1 ニコンピュータ ーは配代の巨人である。 知識や情報の収集にかけて、人間など足もとへも及ばな い。 とりわけ、知三の記億にかけては文字通り 超人的存在である。どんな記載のよい人も、ュン ビューターと焼争することはできない。 (中略) コンビニューター社会では、知識と生演についてこれまでのような考えは許されなくなるはすで おる。偶は生活があるから人間なのであって、 知識がいくらあっても、生活のない人は価値が 小きいのであぁる。 0 るのことで、 自覚されてい (由送十[著]、『知的生 慣』 気麻桂房より) 一部変更

未解決 回答数: 1