【1】
次の文章を読んで、後の問いに客えなさい。
禅の問答の中に「大河の流れに流されるもよし、逆らうもよし」という1有名な問答があります。自然の流れに身を任せてい
ることさえも、実は一A 的な生き方だという考え方です。自然は手を加える必要がないほど完壁な素晴らしい秩序だというこ
とが背景にあるのです。ですから、“グちることも美しいことだと考えるのです。死ぬことも美しいことだと考える。生きるこ
とが素晴らしくて、生きることに失敗して死ぬのではなくて、死ぬことも生き方の形として素晴らしいことなのだというのが
2この思想です。
あ 。
大乗仏教の教えるところの"他カとも似ています。そこから必然的に仮の人生、仮の姿、生きているのも死ぬのも、みんな
たまたまそうなのだということ、そして、明日はまた違うよということを、当たり前に認めようという考え方です。この住いは
仮であって本物は別にあるという仮ではないのです。この意識が日本人の心の深層をつくっていると思います。桜は満開を狙っ
て見に行きますが、それは満開が散り始めだと知ってのことです。散り始めた瞬間のほうが好きなのです。日本人は散ることの
ほうが、美しいと思っている。移り変わることが、死をもふくんで美しいのです。
抗わないで流される美しさ、それが「仮」の意味です。
茶室では、くずれた土壁を塗りなおして真新しい状態にもどそうとはしません。くずれたら鰻で修理し、幾の跡をそのまま残
します。土壁に見かける波形模様はデザインではないのです。壕れて穴があいてしまったから、塗り直したという”単なる修理
の跡です。修理の跡にも美しさを感じているのです。茶渋のついた碗も、汚れを適度に残して取り除きます。庭の落ち葉もす
xつかり掃いてしまうのを嫌い、心地よく昔の上に散った落ち葉を楽しみます。金継というものもあります。欠けた茶碗を金でつ
2いでそれを楽しむ。修理あと、壊れたことさえ美としてとらえてしまうのです。木が風雨にさらされて年輪が凸凹に浮き出てく
る。自然と融合して侵食される住いが美しいのです。
る。
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輪廻転 生ということでしょうか。今の住いは仮ずまい、この人生も仮の人生ということです。これは、本当のすま
いと本当の人生が訪れるまでの仮だというのではなく、家も人生もしょせん仮であって、それが嬉しいということなのです。宇
宙の摂理が統べるこの世界のすべてを受容しようという感覚がこの「仮」の美意識の背後にあるようです。
日本の家屋の屋外と屋内の連続性は、西洋人には理解できないほどにしジンジョウではありません。屋内はほとんど屋外であ
るかのように開放的であり、屋外と一B 的で同格です。この開放感はほとんど仮設物であるかのようです。どこからどこまで
が屋内かということさえはっきりしない。木と竹と土と紙でできている日本の家屋の明かり障子や 拠は外してしまうことができ
ます。外してしまうと庭から部屋まで、部屋から部屋まで、全く連続してしまいます。
襖を開け放したり、移動すれば、4大きな空間ができて、2冠婚葬祭などのいろいろな使い方が可能です。田舎の我が家でも、
襖を外して数十人という客を招き、大きな法事をしたりしました。こんな透け透けで自在なのが日本の空間なのです。日本の家
屋では部屋というものがありません。·風や襖で仕切ってあるだけですから、部屋の概念がないのです。客間、居間、茶の間と」
仮の用途があっても、目的を限定していないのです。座布団や夜具やお膳などのちょっとした道具を置くことで用途が変わる。
すべての使い方が仮であり、それがすべてなのです。屋外と屋内も区別なんかしていません。内部空間と外部空間を対立概念な
んかでとらえていません。庭も家の一部であり、融通無得なのです。
連続的に外につながる掃き出し窓 (=室内のちり、ごみをはき出すために床と同じ高さに設けた窓)は、日本では当たり前ですが、ヨー
ロッパにはそんな窓はありません。そもそも日本家屋には、西洋でいう「窓」がないのです。西洋の家は石造のため、採光や通
風のために壁に穴を穿って「窓」をつくりました。「窓」は壁があって初めて成立するものなのです。ところが日本の家屋は壁の
建築ではなく、柱 梁 の建築であり、壁というものを持ちません。だから当然、屋内と屋外は連続的なのです。その内外の中間
に設けられた明かり障子が、近代になって掃き出し窓になったのです。日本家屋の特徴をほとんど残さないマンションにさえ、
掃き出し窓はあります。それほど8日本人は(
床から天井まで透明感のある被膜のような窓は現代建築でも多用されますけれど、日本人にとっては近代建築の流れであると
いうより、明かり障子の感覚から生まれた開放性だといったほうがいいでしょう。
屋内と屋外を連続した空間にとらえる日本人にとって、屋内は屋外の一つのかたち、自然の一つのかたちでしかないのです。
家屋も自然と同じように、
の時の流れとも一つになっている感覚なのです。
西洋の建築とはあまりに違う日本の家屋。
けない重要な課題です
明治以後長い間、日本は西洋の思想を絶対視し、盲目的に生活のすべてに西洋化を図りました。茶道までも西洋化をして、立,
礼という椅子式のお点前を生み出しました。建築の教育でも、営々たる歴史をもつた大工の建築技術ではなく、西洋のものばか」
りを教えてきました。住宅では畳にカーペットを敷いてベッドを置き、思想面でも自由や自我や哲学を学び、日本の思想を塗り」
)を欲しているということでしょう。
x すると考えていたのでしょう。「仮」の美意識とは自然と一つであるという感覚であり、自然
日本の家屋は果たして建築か sという問いは、どうしても明らかにしなければい
ミ
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