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「これは何ですか?」と問われるといつも、「これはこれです」と答えるのだと言
う。そういう意味では、暖味なものを暖味なままに正確に表現する、一か所もゆ
るがせにしないで、正確に、これしかないという表現へともたらすこと、これが
画家の力量である。
このように、政治、ケア、描画のいずれにおいても最もだいじなことは、分,
らないもの、正解がないものに、分からないまま、正解がないまま、いかに正確
に処するかということである。そういう頭の使い方をしなければならないのが私
たちのリアルな社会であるのに、多くの人はそれとは反対方向に殺到する。分か
りやすい言葉、分かりやすい説明を求めるのだ。だが本当にだいじなことは、恐
難な問題に直面した時に、すぐに結論を出さないで、問題が自分の中で立体的に"
見えてくるまでいわば潜水し続けるということである。知性に肺活量を付けると
いうのはそういうことである。目の前にある二者択一、あるいは二項対立にさら
?「外へ出る」とは、ど
ういうことか
され続けること、対立を前にして考え込み、考えに考えてやがてその外へ出るこ」
o
④超勢
ある方向へと動
それが思考の原型なのに、 そうした対立をあらかじめ削除しておく、ならし
「論理にくるんでし
ま」うとは、どういう」
ものなのか、そういうことをきちっと見極めるような視力である。そのためには、
目下の
例えば目下の自分の関心とはさしあたって接点のないような思考や表現にも触れ "
ることがだいじだ。自分のこれまでの関心にはなかった別の補助線を立てること
鍛える闘 鍛練
範もる闘竹範·簡城
で、より客観的な価値の遠近法を自分の中に組み込むことがだいじなのである。
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121|思考の肺活量
6評論
ゆるがせにしない
息が詰まる
…にあらがう
暖味 圏味覚一
ことか
哲学はこういう趨勢にあらがって、知性のそういう肺活量を鍛えるものである。
人は、思いどおりにならないもの、理由が分からないものに取り囲まれて、い
らだちや焦り、不満や違和感で息が詰まりそうになると、その懲ぎを突破するた一
めに、自分が置かれている状況を分かりやすい論理にくるんでしまおうとする。
その論理に立て篭もろうとする。分からないものを分からないまま放置している
ことに耐えられないからだ。だから、分かりやすい物語にすぐに飛び付く。
だが、本当にだいじなことは、ある事態に直面して、これは絶対手放してはな
らないものなのか、なくてもよいものなのか、あるいは絶対にあってはいけない一
ただ今/現在