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現代文 高校生

問3の記述です 第9段落後半の内容は書いてはいけないのですか? またなぜかいてはいけないのですか? 「動機は~にてないわけではない」とあるので書いていいような気がするのですが

例題 C 「具体例」とその「まとめ」 例題C 次の文章を読んで、後の問に答えよ。 ① 人間のあり方を考えるのに、人類学がチョゾウして来た様々の文化の、これま ではどちらかと言えばXと考えられて来た事例の方が新しく立ち現れる現 実を説明するのに時にはより有効であると考えられるようになって来た。 ② たとえば、次のようなニューギニアについての記述は十数年前までは、馬 鹿々々しい痴れ者の戯れと考えられたかも知れない。しかし、今日これを読む 人に、何やら、自分が秘かに言いたいと思っていることを代弁されていると思う 人は決して少なくないであろう。 つぼ ③ パプアニューギニア共和国の、 アサロ河流域のグルンバ族の住民は、時々、発 作的な行為に走ることがある。ある暑いけだるい日のひるさがり、村の中を一人 の男が突然逆上して走り出す。彼は目につくものを片っぱしからよこせと要求す 10 る。こうした時に、回りの人は彼には全然逆らわない。壺でも石の切れ端でもナ 野ブタ"の如く変身した男は、木製の矢じり、こ イフでも、何でも彼に渡す。 んがらがった糸、煙草、石鹸、衣類、ナイフ、網、皿といったザッタな物で大き な袋が一杯になると、それを担いで森の中に姿を消す。 せっけん ④ 二、三日すると彼は袋を持たず、 手ぶらで帰って来る。 燃やしたり、どこか人の 知れぬ場所に埋めたり、壊したりしたのである。 こうした振舞いは、グルンバ族の間では文化の中の許容範囲に入っている。 男 は、森の中に身体中のキンチョウをしぼり出して来たというふうに理解され、彼 はふだんの生活に戻っていく。しかし何日もたたないうちに、また別の男が“野 ブタ"になる。 ⑥ 他の社会で、犯罪人とか、通り魔とか暴走族といった枠の中に入っていく人の 多くはこうした社会では、 平常の人間で生涯を送れたかも知れない。ある意味で は、こうした行為は、ストレスに対する解放装置になっているといってもよいか も知れない。 ⑦ オセアニアの多くの地域においてそうであるように、グルンバ族の感情生活、 社会生活は、おおかた物の交換の上に成り立っている。交換は、社会的コミュニ ケーションの根幹になるようなパイプであり、交換の場は、最も晴れがましい劇 場である。 交換においては、純粋な経済的機能はそれほど大きな位置を占めてい ない。人前で、見せびらかしながら品物をやり取りする行為は、むしろパフォー マンスと言った方がよいようである。それは、既に存在する関係を一方では強調 しながらも、 他方では新しい関係 (交通)を打ち立てるという働きをしている。 野ブタ” 人間の出現は、多くの場合この交換の場に関連している。 交換のと 00 すで 10 #HE] r.

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現代文 高校生

スタジオジブリの想像力 解答がないので6番から一緒に答え合わせして欲しいです!! 間違ってるところがあれば教えて頂きたいです🙇‍♂️ 3国

| 次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。 「ミッキーマウス」や「鉄腕アトム」の例を引くまでもなく、20世紀はアニメーションの世紀といっていいほど素晴らしい作品をたくさん生み出しました。 いまや2世紀も5分の1が過ぎてしまったわけですが、20世紀に生み出された作品が、その生命力を立ショウするようにさらに新しい作品を生み出すという かたちで、21世紀のアニメーションもまたたいへんなイキオいで発展しています。いわば、アニメーションはその進化という言葉を気楽に使ってはいけ ないのですが――のさなかにあって、誰もがそれを目撃しているようなものなのです。 その背後には a コンピュータの一般的な普及にともなう情報技術革命(IT革命)があります。 わずか半世紀前には思いもよらなかったかた ちで、アニメを含む映像表現がほとんど全世界の人々にとってたいへん身近なものになりました。世界は広いけれども、広いままで狭くなりました。 コン ピュータは、ご存じのようにアニメーションの制作に大きな変化をもたらしましたが、そしてそのことについても具体的にクワしく学ぶ必要があるのですが、 とはいえ、制作においてだけではなくおそらくそれ以上に、享受のかたちにおいて大きな変化をもたらしています。 20世紀末に爆発的なかたちでおきたパーソナル・コンピュータの普及、インターネットの一般化、いわゆるソーシャル・メディアの浸透は、人類の文化、 とりわけ文学や芸術などの表現活動の基盤を根ティから変えました。 変えた結果がいまや少しずつ目に見えるかたちで現れていますが、 現状はせいぜい現実の変化を認めつつあるといったところで、それがどれ ほど深い意味を持つのか、これから人間の文化や芸術すなわち人間の表現行為がどんなふうに変わってゆくのか、いまなお本格的なかたちで論じられている とは私には思えません。 びょうぶ だいたい建築や絵巻物や屏風、舞踊や音楽といったものを、同じ芸術という名称のもとに論じるようになったこと自体が、 つい最近のことなのです。 芸術 史という考え方が登場したのも、 つい最近のことなのです。つい最近とはいっても西洋では二、三百年は経 わけで、それなりに芸術大学も出来れば芸術研究所も出来るし、有り難がられもしている。 つ、日本だって百五十年くらいは経つ きな変動のもとにある。そしてその変動の中心になっているのが舞踊や音楽といったパフォーミング・アーツと、ほかならぬアニメーションなのではないか もともと変化しやすいものですから、いま再び大 と、私は考えています。対にしていえば、前者は し、後者は する芸術。 ダンスは生身の身体表現、アニメはその正反対。二つは両極端ですが、ところがIT革命の恩ケイをもろに受けているということでは一緒なのです。ダン スはこれから YouTube のようなソーシャル・メディアのおかげで大きく飛躍すると思いますが、そういうことではしかし、アニメーションの飛躍にはかな わないでしょう。 コンピュータはまさにアニメのために出来たようなものですから。 (三浦雅士「スタジオジブリの想像力」による) C P 17 ウ

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現代文 高校生

この文章に出てくる「筆者」というのが誰か分かりません…この文章を書いている杉田敦が自分のことを自ら筆者と名乗っているのでしょうか?

45 伝えるという意味では一種の代表機能を果たすと考えている。選挙や無作為(チュウシュツの世 5 論調査と異なり、デモなどは、一部の人びとが勝手に参加するものなので、全体の世論分布を反 映せず、したがって「代表性」がないという議論も根強いが、それなら、なぜ多くの国々で、街 頭デモによって政権が(選挙を通じてつくられた政権でさえも)倒れるのか。多数の人びとが参 加するデモが、民意を示す一つの重要な手段であることは、国際的に確立されている。 こうした筆者の議論に対して、代表制をそのように多元化すれば、政治の「スピード感」が失 われ、結果的には決定が遅延し、政治そのもののパフォーマンスが低下するという批判が寄せら、 れるかもしれない。図分功一郎と村上稔の討論「変革の可能性としての市民政治」で、国分は次 のように指摘している。「住民運動に反対する人は、日本は『間接民主主義』や「議会制民主主義」 というかたちで民意をくみとっているのだから、それ以外の手段を出してくるのはおかしいと言 さらに筆者は、制度化されていない、たとえば街頭でのデモのようなものも、人びとの意思を うんですね。驚くべきことに、学者でもそういうことを言う人がいます。 筆者自身は、経済や環境をめぐるグローバル化が大きな影響をもつ今日、決断主義的な政治の 枠組みをつくり出そうとしても、現状に合わず、事態の改善につながらないと考えている。それ よりは、右にもふれたように、より多元的なチャンネルを用意する方が、まだしも可能性がある と思う。その意味で、筆者:1鈴木の間題意識に共感するところが大きい。 ただし、何か良い枠組みをつくり出せば、万事うまく行くという見通しについては、筆者は 0 、かなり懐疑的である。実は制度改革論という点で、鈴木の考え方と政治改革論との間には、 一定の類似性が感じられる。むしろ筆者は、どんな制度によっても民意が完全には汲み尽くせな

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