-
ひかる
おいずみ
奥泉光
己を放り込む虚構
人が生まれ育った場所を故郷と呼ぶのなら、 庄内は必ずしもぼくの故郷とは言えないだろう。 生まれたのはた
しかに山形県ではあるけれど、一年も経たぬうちに両親ともども東京に移ってしまったからである。とはいえ母
の実家である、広々とした水田に点在する集落の家には、祖母と曾祖母が残って、毎年夏には必ず帰省して庄内
平野の穏やかな風光のなかに長い時間を過ごした。
② 子どもにとって夏休みはそれだけでもう心弾む出来事であるが、ぼくにはさらに田舎での数週間という贈り物
があったわけである。 すばやく身を翻し水底の泥に隠れるドジョウ、草いきれのなか息を殺して浮標を見つめた
用水路での魚釣り、蚊帳に置かれてあわく明滅する蛍、サエギるもののない広い夜空に横たわる銀河、集落のは
ずれから繰り返し眺めた月山の姿――。 これら子ども時分の貴重な記憶の数々は、一昨年に書いた「三つ目の鯰」
という作品となって一部結晶したのであるが、要するに大人になるまでのぼくにとっては、庄内はただ心楽しく
エキサイティングな冒険の場所にすぎなかった。
○筆
③ 故郷という言葉とともに山形の家のことを考え始めたのは、三十歳に近くなってから、小説を書き始めたころ
のことである。
④ ひとつのきっかけは父の死である。葬式が終わり、田んぼの真ん中の墓地で、白木の箱から父の骨灰を墓の底
にばらばらとまいたとき、かつてない不思議に甘美な気分にぼくは捉えられた。それはどうやら自分もいずれ死
ねばこうなるのだとの思いであるらしく、そう思って周囲を見回してみれば、五月の水田は湖沼のように陽光を
映して輝き、月山と鳥海山が蒼くくっきりとした稜線を鮮やかにして墓地を遠くから見つめている。雲雀のさえ
ずりが空の高いところできこえた。
⑤ 自分の死に場所にここは悪くない。そのような声が、 「故郷」という言葉とともに、初夏の平野をぼんやりと眺
めるぼくの心に、静かに立ちのぼってきたのである。
⑥ 「故郷」とは言うまでもなく近代に発明されたひとつの虚構である。都会での生活スタイルが確立されるにつれ
生じてきた、だれとも連帯せずに浮遊している人の孤独感、あるいは根を断たれているとの不安感が、 温かく己
を包み込んでくれる母胎のごときものとして、己の魂が穏やかに回帰すべき場所として、遠い憧れの地境として、
「故郷」のイメージを文学的に創造した。故郷の山河といった場合、山や河自体は当然昔からそこにあったはずだ
けれど、それらが懐かしい風景として思い描かれるにいたったのは、明治以降の文学がそのように描いてきたか
らである。
⑦ たとえば柳田国男の「常民」概念をここであげるなら、それが現実に生きてある人々を具体的にさすのではなく、
失われた何かを回復せんとする柳田のロマン派的文学の心情が作り出した虚構であることは、数多くの批評家が
指摘するとおりである。「常民」とは都会にある者の眼に映った、 「故郷」に棲む人間の幻像である。
一方では、少なくとも近世以来、西欧的な都市団体をもたなかったわが国では、都会の生活者といえども地縁
血縁のしがらみからは逃れがたく、そうしたしがらみの象徴としての意味をもまた「故郷」は担うことになった。
かくして故郷は両義的であり、だからこそ遠くにありて想うものなのである。
⑨ 虚構である「故郷」はつまり選びとられるものである。選んだおぼえなどないという人にしても、無意識のうち
にそうしているのであり、人生の節目のあるとき、ここがやはり私の故郷なのだと、感慨にとらえられつつ風景
に良をやった記憶がだれにも必ずあるはずである。
⑩ 虚構をこととする作家であるなら、当然この選択にはジカク的である。作家は「故郷」を発見する。たとえば中
上健次にとっての紀州がそうである。むろん作家は故郷にアンジュウしたり、ただ感傷にひたるために故郷を選
ぶのではない。何らかのかたちで「私」を問題にせざるをえない近代小説の伝統のなかで、 己自身をひとつの虚構
に放り込むことで、多様な物語を「私」の内部に導き入れようと作家は企むのである。
⑩ ひとりの作家であるぼくは、庄内を自分の「故郷」として選んだ。 これから小説を書き進めていくなかで、ぼく
の「故郷」は途切れることなく、創造の活力を与え続けてくれるだろう。
32
[⑧]
①
14
筆る
2-1
5-3
7~6