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資料 問題集 2
授業で学んだ事にチャレンジしてごらん! 後でノートと教科書を見て答あわせを
やってください
※注意―テストでは語群の語句を重複して使わない事。 正解も×にします。
4幕末抗争の展開
Ⅰ 井伊直助亡きあとの、混迷を深める政治 <
徳川家が生き残るために安藤正信が 「天皇と将軍を兄弟にしよう」 と謀り、朝廷との融和を
]
進めた出来事を何というか[①
天皇の妹和宮が身分を下げて将軍家茂の夫人になった事を [②
という
この事は尊王攘夷を唱える人々の怒りをかい 1862 安藤は襲われて負傷し失脚。この出来事
を1③
]という。
幕政をやりたかった【④
]藩の藩士の父島津久光はチャンスとばかり、①に賛同し
た。 ①に長州藩尊王攘夷派は「きたないやり方だ!」と猛反対した。 幕府の政治力が低下する
中で長州藩を拠点に、 尊攘派の下級武士たちが集まり①運動を押し返した。
ⅡI 、 志士による尊王攘夷運動 <
[1], 1862 #5
藩主の父、島津久光が江戸から帰る大名行列で藩士が行列に下
馬しなかったイギリスを殺傷する [⑥
[事件]が起こり国内政治はさらに混迷。
1863年、⑥の処理が原因でイギリス艦隊と一戦を交えるにいたる。 ⇒
1⑦
]
◇長州・土佐藩士を中心とした尊攘派 (尊王攘夷派) +三条・岩倉 は攘夷への強い意向
を持っていた孝明天皇を擁して朝廷の政治的主権を握った。
[2][8
藩は1863年5月下関海峡で外国艦船を砲撃した。
1864年、兵を率いて、 京都御所門で警備の会津、薩摩藩と交戦し敗北。
この藩は幕府の第1次長州征討にも屈服し、朝敵ともなった。
■3]会津藩薩摩藩は軍事力を背景に朝廷 (天皇) の攘夷の方針をくつがえさせ、 攘夷派を京都から
退散させた。 1863年 (八月一八日の政変)
[4] 長州藩攘夷派は1864年、政治復権を求めて兵力を率いて会津藩薩摩藩や諸藩軍と戦
したが惨敗。(←朝廷からは朝敵とされ、 幕府は第1次長州征討する)
これと同時に、8月英・仏・米・蘭が、 報復に下関を襲撃、長州藩の砲台を攻撃し破壊した。
([9
という。)
外国の力に屈服した [1]と[2] の藩は外国勢力の力を冷静に認識し、攘夷の
] をしっかり悟った。 そして軍備の近代化の必要を悟った。
[10
特に [2]の尊攘派は攘夷をやめて [⑩
に変えた。
開国倒幕
[1] 長州藩は幕府に従属の意思を示した。 が、 下級武士=らは開国倒幕の意思。
特に長州藩の劣勢を挽回する為、[12 人物
[13
] は農民・町民も加えて、
を結成瀬戸内の豪商・豪農の援助で、 1865年に藩政を奪取し、藩の方針
]に転換させた。 武士以外の人を軍事力として組織する事で藩全体を軍事体制
を[14
へ転換させた。
1865年には藩内の実権を握り開国倒幕の意思かためる。
幕府は第2次長州征討の命令!
[2] こうした中、 土佐藩の [15 人物
]と中岡慎太郎が仲立ちをして、
1866年1月、薩摩藩が長州藩を支援する事を約束した [16
も一人この人でした。
]
坂本龍馬→ [ 人物 高杉晋作 ] [人物 木戸孝允 ]を説得
中岡慎太郎 [人物 西郷隆盛 ] [人物 大久保利通 ]を説得
↑
↑
この頃薩摩藩で主導権を握っていた。
これまで2つの藩は、幕末では長く対立を続けていて、長州は薩摩を強く憎んでいた。
その後、薩摩は幕府 (徳川慶喜)の第2次長州征討を拒否した。 14 大将軍家茂が死去
これで、幕府は長州に敗北した。
はここまで