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2ndステップ 論理
たかし
t
うちやま
日本人にとっての自然とは
5 理然
日本人はなぜキツネに
内山
館
テ 筆者が改めて考察している事柄をつかも
だまされなくなったのか
攻略のプロセス1・2を通して、《日本人の自然》を《再考察の対象となる事柄をおさえ》たうえで読み取ろう。
日本の人々にとって自然とは、客観的な、あるいは人間の外にある自然体系のことではなかった。それ
は自分自身が選っていく場所でもあり、自然に帰りたいという祈りをとおしてつかみとられていくもので
もあった。とすると、その自然とはどのようなものであったのか。
すでによく知られているように、かつての日本では自然はジネンと発音されていた。 シゼンという発音
が一般的になったのは、明治時代の後半に入ってからである。英語のネイチャー、 フランス語のナチュー 5
ルを日本語にするためにシゼンが使われるようになった。その意味でシゼンは外来語の訳語である。
ジネンはオノズカラ、あるいはオノズカラシカリという意味の言葉である。今日でも私たちは「自然にそ
うなった」とか「自然のなりゆき」という表現を使うが、これがジネンと読んでいた時代の意味の名残だと思
えばよい。
このように見ていくと、自然に帰りたいという人々の伝統的な思いは、シゼンに帰るということより、10
ジネンに帰る、つまりオノズカラの世界に帰りたいという思いだったことがわかってくる。 オノズカラの
ままに生きたい、ということである。
自然(ジネン)訓で読んだときのオノズカラシカリ(ナリ)とは作為がない、ということであろう。有意
ではない、と言ってもよい。 自我のはたらきから生ずる意図がない、あるいは「我(われ)」がない、と表現
することもできる。
(注1)
そしてこの気持ちにも仏教が言葉を与えた。人間は自我があるから「我(われ)」にこだわる。 我執のある
(注2) ④_
のが人間である。だから「我(われ)」の欲望をもち、「我」を主張して争い、悲しむべき凡夫に堕ちていく。
煩悩は、「我」をもつことそのもののなかにある。だから煩悩を捨てるとは「我」を捨てることだ。そして「我」
を捨てたあり方とは、すべてがオノズカラのままに生きることだ。 オノズカラのままに生きることによっ
(注4)
(注3)
ゆる
て、人々を救う。すべての人を。ここで発想は大乗仏教と結ばれる。
もっとも、このように見ていくと、 ジネンという言葉をシゼンと読んだうえで、ネイチャーやナチュー
ルの訳語にしたのはかなりダトウだったということがわかる。なぜなら最もジネンなものは自然(シゼン)
だからである。自然(シゼン)はすべてがオノズカラのなかに存在している。 シゼンとジネンは同じではな
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