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議会開会以前の政府は,政策が政党の意向によっ
ちょうぜん
て左右されないとする超然主義を表明していた。
初期議会の対
かいしん
しかし, 1890(明治23) 年の第1回衆議院議員総選挙では,立憲改進党
や立憲自由党などの民権派(民党)が大勝し,政府系勢力 (吏党) を上ま
みんとう
りとう
わり, 衆議院の過半数をしめる事態になった。 第1回帝国議会では,
やまがたありとも
NAJIVA
みんりょく
山県有朋内閣が軍備拡張の必要を強調したのに対し、民党は民力の休
養と行政費の節約をとなえて、政府とはげしく対立した。
20 つづく松方正義内閣や第2次伊藤内閣のもとでも、民党が政府提出
➡p.183,
さくげん
の予算案を大幅に削減したため、政府は衆議院の解散という手段をと
にっしん
➡p.193
って対抗した。このような政府と議会の対立は,日清戦争直前の第六
議会までつづけられたが、議会で予算を通すために, 政府はしだいに
民党を無視できなくなった。また民党側でも政府に反対するだけでは
25 政策を実現できないと考えるようになり、政府と政党がしだいに歩み
寄りをみせ始めた。