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梁啓超 「中国積弱の根源について」 (「清議報」 1901年4~7月掲載)
合格
( 国家と朝廷の区別を知らないこと。 我が中国には奇
異なことが一つある。 それは、数億の人間が数千年に
わたって国を建てていながら、今日まで国名がないこ
とである。
中国人の脳にある理想は、立派で尊ぶべきものももと(国家と天下の区別を知らないこと 中国人はこれま
で自分の国が国であることを知らなかった。
より少なくないが、改むべきものもまたたいへん多い。
西洋や日本では、中国人は愛国心がない、 としばしばい
われる。私はもとよりこのことばを愛する者ではない
が、要するにわが国民の愛国心が西洋や日本にくらべて
薄弱なのは、まぎれもない事実である。 愛国心の薄弱な
ことこそ、わが国の積弱の最大の根源にほかならない。
私はかつて思考の及ぶかぎり、愛国心の薄弱な理由を研
究し、その源は理想の誤りから発しているという結論を
えた。その誤りは次の三点である。
国家と国民の関係を知らないこと。 国というものは
民を集めてつくられている。 国家の主人はだれかとい
えば、その国の国民にほかならない。
(村田雄二郎責任編集「新編 原典中国近代思想史2」)
Q. 梁啓超は中国の弱体化についてどこに原因があると考えていたのだろうか。
血
Key
Person 西太后 (1815~1908)
同治と光の時代以上にわたって
っていたのは大だった。 光
を始めるといったんは引したが、
中心となった
おこし
を
反発して
して政権のに
した。 しかし
団事件で敵すると一
らった
1901~)をした。
西大
○有為
11856-1927)
こうゆうい
康有為 『日本政変考」
「もし中国が維新を実行するならば、これを以て鏡とすることができる。
……我々は、日本の人の改革の成功したものだけを収穫し、失敗は捨てて
ゆく。 日本は困難な道を歩んだのであるが、我々は容易な道を歩むことが
できる。日本は創始の仕事を行ったのであるが、我々はそれを模範として
ゆけばよい。 足跡に従って描けば図面ができあがるのである。 更に中国の
人口と国土と産物はどれも日本の10倍もあり、これをもってすれば半分の
労力で倍もある効果が得られることにとどまらないであろう。」
(吉田寅「世界史資料 下 東京法令出版より)
3 清末の改革
改革洋運動 15500〜94
同治帝
45-495
●清末期の動向
の
ヒント
[1894~95
1895-98
1098
[1900~01
1901-08
[1911~12]
1896~98)
新政 (1901~08)
光帝
西太后世町
変法運動
日清戦争
辛亥革命
光新政
義和団事件
2.3252
推進者 国李鴻章 左京菜 有為、啓
「中体西用」
「変法自強
政治は伝統
内容
を
えず工業・軍事は
明治維新をモデルとした
立君主制をめざす戊戌
法(1898) を実施
主をめざす
・科挙の廃止(1905)
・大橋の発表 (1908)
国会話の公的 (1908)
日清戦争(1895) 戊戌の改変(保守派のクー効果が出る前に辛亥革命
限界が
デタ)で失敗(1898)
が発生(1911)
洋運動
の失敗
主
をめざす
夏法運動
の折
保守派の
再び立憲君
清朝の滅亡
北
主をめざ
す