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実践問題
次の資料について、下の問いに答えよ。
次の資料は、ローマ時代のある人物が1世紀前半, 死去の直前に自分の功績を
したものである。 ( 21 共本改)
私は19歳の時、国家を自由へと解放した。 私の父(養父)を殺害した者たちを
追放し、法律に則った裁きによって、復讐した。
マルケルスとアルンティウスがコンスルの年、国民と元老院からア職を提
供されたが,私は受けなかった。
元老院とローマの民衆は、私を、法律と道徳についての最高権限を持つ単
独の監督者に選ぶことで一致した。しかし、先祖の慣習に反して提供された公職
については、私は何も受けなかった。
我々の先祖は, ローマ国民の領土全体にわたり。陸と海において勝利により平
和がもたらされた時はいつも、ヤヌス神殿の扉を閉じることを命じていた。この
扉は,私の生まれる前では, ローマ創建以来2回だけ閉じられたと伝えられてい
るが,私が元首である時に、元老院は3回閉じることを決議した。
11度目のコンスルであった時、私は自身の負担で食糧を買い, 12回配給した。
私の名前で3回、 私の息子たちと孫たちの名前で5回, 剣闘士試合を催した。
私の命令で,二つの軍がほぼ同時期に エチオピアとアラビア半島南部へ遠征
した。マ時代の地図問題
Jus
ローマ国民の領土にエジプトを付け加えた。 私が元首となる前には, ローマ国
民の軍隊が侵入したことのなかったパンノニアの人々を、ローマ国民の支配下に
置き, イリュリクムの境界を イ 川の岸辺まで延ばした。 この川を越えてこち
ら側に侵入してきたダキア人の軍は敗れ, 壊滅した。
内乱を終わらせた後にすべての人の同意で全権を握っていた私は,国家を,私
の権限から元老院とローマ国民の指導の下に移した。 以後、 私は権威では全ての
人に優っても、権限では、公職の同僚である他のどの人を越えることはなかった