『岡部日記』
1二0一九年度 古文
* 6 し
あはれ、都にありつるほどは、あからさまながら毎年に故郷に帰りなどしげれば、さのみもあらざり しを、今は、たはやすく
も帰るまじく思ひなしっれば、千里の遠に老いたるたらちねをおき 奉りて、とみのことありともいかでか知らん、知るともいか
nし」た
でかどみに 祖き至らん、今やいかなることかあらん、いかなる心にか坐すらんなど、人やりなら ぬ、胸騒がれつること、日ごと
にありしを、世の性はあはれなるもの国て、うったへに忘るとはあらねども、友がきも出で来て、高き 彫しき 行き交ひUける
二つなき心の紛れやすくて過ぐしぬ。
この秋は、誘ふ人さへあれば、いでや、母をも拝み、妻子、はらからにも逢はばやとて、後の七月八日つとめて立ち出
pro このあらまし言ふころ、人々別れ惜しむとて、唐大和のうた一百ばかりもあらんかし。そは異ものに記しつ。友がきの名残
なきにしもあらねど、契りおく日数いくばくなら ねば、先進まるる心には痛しとも思ほえげ。
品川の駅あたりは、海の面ゆほびかなり。夜の雨晴れて白雲多く海の空にかかれるは、伊豆の御崎と安房の大山となり。「こ
のところは袖の浦とぞ言ぶ」など、あをた輿く奴のみだりに言ふは、をかしきものから、いづくにまれ、解洗衣着ん日までは、そ
の名のゆかしきや。朝風いとどしく身にしむに、
旅人は衣手寒ししばしなほ心して吹け浦の秋風
「関吹き越ゆる」など詠みけん思ひ出でらる。富士の山は未申の空に見ゆ。これぞおのがながむる方なるに、故郷人はこなた
をこそと思ふも、今度はうれし。遠つ年、東に来げるほどに
東路にありと聞きつる富士の嶺をタ目の空にかへり見るかな一
と詠めて、「かぎりなく 遠くも来に
と、わびつるには変れの