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強兵のために貿易が必要であるとして、外交を担当する外国奉行を
いて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結ん
あんせい
貿易は、1859 (安政6)年から横浜 日 長崎 箱館の3港で始まった。
ばんかい
げんじ
「長州藩はこれを挽回しようと、 1864 元治元)年に京都で会津藩・薩摩藩
きんもん
ついとう
など幕府側と戦ったが敗れ (禁門の変)、 朝廷の命で幕府による追討を受
せい
しものせき
けた(第1次長州征討)。 長州藩は、前年の外国船砲撃の報復としてイギ
リス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊による 下関砲台
への攻撃も受けたため、攘夷の不可能を悟り、幕府に従う態度をとった。
「幕府はこのあと、1865 (慶応元) 年に朝廷から条約の勅許を獲得した。
こんだん
よこすか
✓かくと
また、フランスから顧問団を招いて横須賀に造船所を設けたほか、 陸軍
でんしゅう
伝習をおこなって軍事力の全面的な洋式化を進めた。一方、長州藩では、
きた
たかすぎしんさく。
身分を問わない志願者による奇兵隊を率いた高杉晋作らの挙兵によって
桜田門外の変 (茨城県立図書館蔵)
きょうへい
とうかいどう
●神奈川が交通の多い東海道の
宿駅だったため、 神奈川のかわ
りに横浜を開港した。
1839-67
ほうき
じょうい
当時の将軍が病弱で子がなか
ったところから跡継ぎが問題と
なった。 井伊直弼ら血統の近さ
を重んじて徳川家茂を推す伝統
的な立場と、困難な時期である
から賢明な徳川慶喜が望ましい
とする立場とで対立した。
けっとう
この時、幕府は朝廷に条約の勅許を求めたが、通商は明確な 。小五郎(木戸孝充)らもとの尊王攘夷派が主導権を回復し、これに対
の放棄であり、攘夷の風潮が強かった朝廷は条約を結ぶことをして幕府は再び長州征討を宣言した(第2次長州征討)。しかし、第1次
かった。当時は将軍の跡継ぎをめぐる対立のがあり、対立する双方 長州征討中から幕府の実力に疑問をもち、長州藩尊王攘夷派との関係を
廷に働きかけた結果、朝廷の発言力が高まっていた。それでも深めてきた西郷隆盛や大久保利通の主導した薩摩藩はこれに応じず、
直弼は条約を結び、批判者を弾圧したが(安政の大獄)、天皇をない 1866 (慶応2)年に坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結んだ。
1827~77
ちゅうかい さっちょう
そんのう
1835-67
「あんさつ
ろにしたとして尊王攘夷の立場からの反発が強まり、 1860 (万延元)年(15
まんえん
横浜には1863 (文久3)年からイギリスやフランスの
さくらだもんがいへん
暗殺された(桜田門外の変) 。 これにより、幕府の権力が動揺したた
どうよう
貿易の動向
ちゅうん
軍が駐屯し、攘夷の動きにもかかわらず、 貿易は
幕府は、朝廷と融和する公武合体をめざし、孝明天皇の味である おおむね順調に発展した皿。 輸出では生系・茶・義崩紙」が主であった。
を14代将軍徳川家茂の妻に迎えた。 また、 朝廷の要請を受け入れて、 太平天国の乱で上海周辺の蚕糸業 地域が荒廃したため、 中国にかわ
「在位 184666
ようせい
たいへいてんごく
シャンハイ
さんしぎょう
こうはい
おりもの
1846
16~66
しっきゃく
よしのぶ
政の大獄で失脚した徳川慶喜を将軍後見職とするなど改革を進めた
って生糸の輸出がのび、 国内生産が急速に拡大した。輸入品は、 織物
なんぼく
1837~1913
「ちょうしゅうはん
こうしたなか、 尊王攘夷派が主導する長州藩は朝廷に対する影響のほか、 クリミア戦争や南北戦争の中古品を幕府や諸藩が輸入した武
ぶんきゅう
じょうらく
を強め、 1863 (文久3)年には朝廷の命として家茂を上洛させて攘
を約束させ、みずからも関門海峡を通過する外国船を砲撃した。薩
かんたい
あいづ
なまむぎ
さつえい
「さっ!
かんりんまる
p.54
しせつだん
藩も前年のイギリス人殺害事件 (生麦事件)の報復として鹿児島湾に
ほうふく
関係を築き、幕府や会津藩と結んで長州系の勢力を京都から追放した。
したイギリス艦隊と交戦したが (薩英戦争)、 その後、イギリスと良好な
器 艦船が主であった。 貿易は輸出超過であったが、 1860年代後半にな
ると、軍事関係の輸入が増えて輸入超過となった。 当時の中国では民衆
の消費するアヘンが多く輸入されたが、日本では幕府や藩が銃砲や艦
船を輸入して財政難を深めていった。
じゅうほう
ひじゅんしょ
幕府は1860 (万延元)年の日米修好通商条約の批准書交換に海軍伝習
経験者が乗り組んだ咸臨丸を含む使節団をアメリカへ送ったのをはじめ、
四国連合艦隊による下関
国連合艦隊によ
台の占領 砲台の大砲は、長
州藩がつくった青銅製の洋式
砲。攘夷論では刀での戦いが
主張されたが、イギリス軍の
記録によれば、イギリス兵の
死傷原因は銃砲弾と矢が主で
刀や種によるものはなかった
石炭2% その他
海産物
12%
7%
1867年
64
第2章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の
(横浜開港資料館蔵)
この戦いによって、長
州の尊王攘夷派は何を
感じとっただろうか。
けん
繰り返し欧米に使節団や留学生を派遣し、長州 薩摩藩もひそかに視
とこう
察者や留学生を派遣した。 1866 (慶応2) 年に幕府が海外渡航を解禁する
と諸藩もこれに続き、 欧米社会の知識が本格的にもたらされた。
8%
1蚕卵紙は、蚕の卵が産み付
られた紙。 日本産の蚕は病気
強いことから当時のヨーロッ
で歓迎され、 蚕卵紙のかたち
輸出された。
あんか
織物は機械制生産により輸
品が比較的安価であり、 国内
産されていなかった毛織物な
が、めずらしい風合いや柄の
めに人気を博した面もあった。
日本と中国の主要貿易
品で、 共通する点、 異
なる点は何だろうか。 それ
ぞれ、その背景も考えてみ
よう。
1867(慶応3)年の日本と中国
の輸出入 石炭 海産物が日本
から中国に輸出され、 米・砂糖・
ゆんか
綿花がアジア内の貿易であるほ
かは、欧米との貿易。 両国とも
輸入超過で金銀が流出している
(石井孝「幕末史の研究」 Hsiao
Liang-lin, China's Foreign Trade Statistes, 1864
1949などより作成)
米2% 石炭2%
海産物2%
糸2%
原総
7%
茶
生糸
29%
7895万ドル」
60%
1867年
中国輸出
綿花
絹製品
3% その他
その他
4%
10%
織物
綿糸
21%
6%
1867年
生糸
砂糖
8%
44%
1212万ドル
16%
蚕卵紙
艦船
18%
米
11%
武器
茶
日本輸出
19%
日本輸入
2167万ドル 物
20%
13%
その他
109
1867年
中国輸入
9768万ドル
20%
7 中国の開港と日本の開国
45%