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古文 高校生

模試で古今著聞集を解いたのですが文章で出てくる位がよくわからないです。 中納言と右大弁は兼任できるのですか。 正三位と中納言はどちらの方が偉いのですか。 なぜ正三位になったら左大弁になれないのですか。 誰かお願いします😭😭

選択肢】 冒頭に「歌合せでは」とあって、歌合せの場合だけに限定してい が正しいとすると、「歌合せ」以外の場では歌の表現に注意しなくてもよいと になってしまおう。 ここでは、話題を「神の前で詠む和歌」に限定しているのが不適。【文章Ⅰ】 の前で詠む和歌」の作法は話題になっていない。 ②と同じく、話題を「歌合せ」に限定しているのが不適。 は⑩。 したように、【文章Ⅰ】の主題は、「和歌を詠むときには、その和歌の内容が の前に かもしれないので、その表現に注意しなければならない」ということであっ を踏まえて、浜の南の宮が焼けたことと、生徒Aの発言中の 南の宮作り改めてけり夜半の白雪」という表現は、本当は雪が降って浜の 段と違って見えるということを詠んだだけだけど」 とあることから解いてい る。 「浜の南の宮作り改めてけり夜半の白雪」は雪の降った翌朝の景色が普 と詠んだのだが、「作り改めてけり」が浜の南の宮が焼失して作り直すこ を暗示する表現になっていたために、本当に火事になってしまったという話 前の実綱の国の歌で述べたことを補強している。 以上を踏まえると、「浜 が近い将来作り直されることを暗示するような表現」が正解と判断される。 「涙の南の宮の改修は神の望みである」、③「浜の南の宮がどんな災害をも回避す ⑨「浜の南の宮の修理は順調に進行する」は、「文章Ⅰ】 の本文にそれと相当す 実守中納言は、宰相の中将でいらっしゃったが、東宮坊に勤めたことに対する賞で 正三位に昇進なさったので、 実綱は)左大弁になる順番を追い越されてしまった。「こ の歌のせいだろうか」と、当時の人々は噂しあっていたということだ。 本当に詩歌の道 はよくよく考えなければならないことである。昔もこのような例はたくさんあったので しょうか。 同じ広田神社)歌合せで、「社頭の雪」という題の歌) 女房の佐が詠みました 歌は、 今朝見ると、浜の南の宮を作り直してしまったのだなあ。 夜半の雪によって。 この歌が詠まれた)後、再び浜の南の宮は焼けておしまいになった。 これも歌の徴候 が現れたものだろうか。 あの実績の中納言は、弟の実房・実国などに官位を) 追い越されなさったときは、 どうして私たち一族は序列が乱れているのだろうか。 羨ましいのは(列を乱 さないで飛ぶ) 秋の雁たちだ。 このようにお読みになったのは、たいそう殊勝なことで、恨みはそのように深かっただ ろうが、誠信が、弟の斉信に追い越されて、目の前で悪行の報いで死後に苦悩の世界に 赴くことを心に決めて恨み死にをなさったのとは似ていないだろうか。 【文章】 斉信民部卿が宰相の当時、才能が人より) 優れていることによって、兄の誠信の君 を追い越して、 中納言におなりになったので、 誠信は、我が身の失態を忘れて、目の前 の恨みに耐えられないで口惜しいとお思いになったのだろうか、七日目の日に、恨み死 にでお亡くなりになった。 (誠信は) 手を握ってお亡くなりになったが、恨みの) 心が 強かったからだろうか、指の爪が、 みな甲へと突き抜けていたということだ。 弟に官位を追い越されることは、帝王や、臣下をはじめとして、その例は少なく ない。 直ちに、これほどまでのことがあるだろうか(いやない) と、 恐ろしく思えるこ 三条内大臣公教会のご子息である、 実綱中納言は、弟の君達である、 実房、 実国など に追い越されて、 どうして私たち一族はこのよう (に序列が乱れているのだろうか。羨ましいのは (列を乱さないで飛ぶ) 秋の雁たちだ。 などとお休みになったとかいうことも、実綱の) 恨みはたいそう深くお感じになって いたのだろうが、このようなこと(=誠信のように恨み死にをすることはなかった。 誠信が目の前の現世)における悪行の報いで死後に苦悩の世界に赴く報いを実感な とだ。 +2 ●現代語訳 【文章Ⅰ】 同じ(承安二年、この(二年前の住吉大社の)歌合せの行事を広田大明神が、海の 上から羨ましくお思いになっているということを、二、三人が同じように夢として見申 し上げた。 道因がそのことを聞いて、また(二年前と同じように)人々の歌を請い求め 歌合せを開催した。歌合せの題は、「社頭の雪」「海上の眺望」「述懐」が、このよう <= 人々の歌を請い求めての歌合せ〉であった。これ<=この歌合せ>も藤原俊成が判者を つとめた。「述懐」の歌に、二条中納言実綱卿が左大弁のとき、宰相の教長入道と歌合 の相手として組み合わせて、 のりなが 「位山を上る」という「上る」ではないが、位が上がれば人に追い越されてしま う我が身であるよ。(古歌に「最上川のぼればくだる」とあるが、私は) 最上川 を漕ぐ舟ではないのになあ。 その 実綱)は、四位・五位だった期間は重要な役職を経験することなく、弟たち二 人に位階を追い越されて哀れな境遇になっておられたが、仁安元年十一月八日、蔵 人の頭に任命されて、 同じ (仁安) 二年二月十一日、参議に就任して右大弁を兼任した。 同じ(仁安) 三年八月四日、従三位に就任した。 嘉応二年正月十八日、左大弁に転じた。 昔の哀れな境遇のとき)の恨みも解消するくらいに、このように次々と続いて昇進な さっていたのに、この歌<=「位山のぼればくだる..…」 の歌〉をお詠みになったのは どのようにお思いになったからだろうか。こうしている間に、同じ(承安) 三年正月六 さったというのは、本当につまらないことと思われる。 顕基中納言が、いつも「罪がないのに流罪になって)、配所の月を見たかったなあ」 とおっしゃっていた状況には(誠信の死に方は) 似ていらっしゃらなかった <=違って いらっしゃった〉。 実に適切な仏道に人を導いてくれる機縁となる物事に出合えていな がら、(誠信が命を落としてしまったのは、無意味なことではないか。 これだけではなく、寛算が死後悪霊となり (祟りをなしたことや)、清和天皇が、前 世で、法華経転読の功徳を自らの極楽往生のために用いないで、伴善男に対する復讐 のために用いることを誓って死んだ (こと) は、恨みが深いためである。 ともよしお ふくしゅう

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古文 高校生

教えて頂きたいです🙇⤵︎

◆識別 P 1 2 共通テスト対策! 傍線部「に」の文法的説明の組合せとして正しいものを、 から一つ選びなさい。 a おのづから慰むかたもあるにや、 ある昼つかた、いとしめやかにて、 おも 過ぎにこども繰り返し思ほし出でつつ、 わらは 小さき童女の御前に候ひしを、 a 接続助詞 格助詞 断定の助動詞 恋 格助詞 断定の助動詞 d断定の助動詞 格助詞 形容動詞の活用語尾 完了の助動詞 d 断定の助動詞 形容動詞の活用語尾 断定の助動詞 d 格助詞 断定の助動詞 b 形容動詞の活用語尾 完了の助動詞 d 格助詞 ⑤ C a 接続助詞 ca CARSKER ca b 完了の助動詞d a 断定の助動詞 a 777 TƏL ②のうち CHERC しんぐる 入試対策! ・傍線部「に」と文法上同じ「に」 (波線部)を含む歌を、 ア~オのうち から二つ選びなさい。 やがて仁和寺なる所に籠りるにけり。 ア 冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ 帰りける人来れりと聞きしかばほとほとしにき君かと思ひて 何時しかと待つらむ妹に玉づさの言だに告げず往にし君かも 唐衣着つつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ オ名にめでて折れるばかりぞ女郎花われ落ちにきと人にかたるな (早稲田大) e

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古文 高校生

論議に逢ひ給ひたりける の部分の、論議に の、(に)は、どう訳せば良いでしょうか。  儀式の名前の下の(に)の訳し方がわかりません。

ふうていしょう 第3問 次の【文章Ⅰ】は、藤原俊成の歌論書『古来風躰抄』の一節である。また、【文章I】は、 は 葉』の一節で、「芹つみし・・・・」の歌が、一説として以下の故事に依っているということを述べたも 問い(問1~6)に答えよ。 (配点30) 【文章Ⅰ】 「ぎゃうぎぼさつ ちくわう (注1) けうま 行基菩薩、まだ若くおはしける時、智光法師に論義に逢ひ給ひたりけるを、智光少し驕 ひたりと思へる気色なりければ、歌を詠みかけられける。 (注2) まふくだ かたばかま 真福田が修行に出でし片袴我こそ縫ひしかその片袴 H きぶく かく言はれて、 「二生の人にこそおはしけれ」と、帰伏しにけり。この事は、行基菩薩の前の身 (注4) かしづ ひけれど、国の大領などいふものにやありけん。その家の娘のいみじく傅きけるが、かたちな わらは する女のありけるが、子に真福田といふ童ありけり。 十七、八ばかりなりけるが、その家の娘 よし ぬべくなりにける時に、母の女その由を問ひ聞きて、「我が子生きて給ひてんや」と油 さき

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古文 高校生

受可自尊の助動詞る、らるについてですが、受け身なのか尊敬なのかが分かりません。そのせいで内容が取れていない気がします。最初に出てくる歌の前の文で、歌を詠みかけられける。という部分がありますがこれは歌をお詠みになった なのか歌を詠みかけられたという受け身の意味なのかわかりませ... 続きを読む

ふうていしょう 第3問 次の【文章Ⅰ】は、藤原俊成の歌論書『古来風鉢抄』の一節である。また、【文章Ⅱ】は、鎌倉時代初期の歌学書『和歌色 葉』の一節で、「芹つみし・・・」の歌が、一説として以下の故事に依っているということを述べたものである。これを読んで、後の 問い(問1~6)に答えよ。 (配点 500) 【文章Ⅰ】 ぎゅうぎぼさつ 行基菩薩 まだ若くおはしける時、智光法師に論義に逢ひ給ひたりけるを、智光少し驕慢の心にやありけん、若き敵に逢 ひたりと思へる気色なりければ、歌を詠みかけられける。 (注2) ふくだ かたばかま 真福田が修行に出でし片我こそ縫ひしかその片袴 おほかた かく言はれて、「二生の人にこそおはしけれ」と、帰したけり。この事は、行基菩薩の前の身に、大和の国なりける長者とぞい ひけれど、国の大領などいふものにやありけん。その家の娘のいみじく傅きけるが、かたちなどいとをかしかりけるを、門守 78 する女のありけるが、子に真福田といふ童ありけり。 十七、八ばかりなりけるが、その家の娘をほのかに見て、人知れず病にな りて、死ぬべくなりにける時に、母の女その曲を問ひ聞きて、「我が子生きて給ひてんや」と洩らし言ひたりければ、娘、「大方 はやすかるべきやうなる事なれど、無下にその童ざまにては、さすがなりぬべし。さるべからん寺に行きて、法師になりて、 学問よくして、才ある僧になりて来たらん時逢はん」と言はせたりければ、かくと聞きて、急ぎ出で立ちける。 「童の着るべかり ける袴持て来。我縫ひて取らせん」と言ひければ、母の女喜びながら、忍びて参らせたりけるを、片袴をなん縫ひて取らせたり ける。さて、寺に行きて、師につきて学問を夜昼しければ、二、三年ばかりに、味の妹の智者になりにけり。さて、後来たりけ れば、「今宵」と言ひて逢ひたりける程に、この娘、にはかに消え入るやうにて亡くなりにけり。法師あさましく悲しく覚えて、 寺に帰りて、道心深く起こしていよいよ尊くなりにけり。されど、我が童名「真福田」といふこと、僧の中には、さしも知らせ ざりけるを、年経て、行基といふ若き智者の出で来たりけるに、論義にあひたる程に、その昔名をかく言ひて、「我こそ縫ひし のち その片袴」と言ひけるに、思ひ続くれば、「我がもと道心起こし始めし女は、即ち、この行基にこそおはしけれど、我が身を き僧となさむとて、しばし仮に彼の女と生まれて見えたりける」と心得るに、尊く、めでたくも恥ぢも覚めるなり。知識け まこと 真に大の因縁なるものなり。 【文章Ⅱ 】 ごと 芹つみし昔の人も我が如や心にものはかなはざりけむ (注6) (注7) まぼ おうな ある説には、昔、大和国に猛者ありけり。 山をつき池をほりていみじき事どもを尽くせりける。 門守りの嫗の子に真福田丸と いふ童、池のほとりに行きて芹をつみけるに、猛者のいつき姫君出でて遊びけるを見て、この童おほけなき心起こりて、病に 臥しにけるを、姫君もれ聞きて、「あはれにやすき事なり。早く病をやめよ」と言はせければ、童喜びて起きゐぬ。姫君の言ふや う、「忍びて文通はさむに、手を習へ」と言へば、童ほどなくて習ひつ。また言はく、「父母死なむこと近し。 その後は何事も沙 せむに、文字知らざらむ、 わろし。 学問せよ」と言ふ。童学問してうるほひぬ。 また言はく、「忍びて通はむに、童は見苦し。 「法師になれ」と言ふに、やがてなりぬ。 また言はく、「その事となからむ法師を近づけむもあやしかりなむ。経どもをよめ。 祈り せさするやうにてもてなさむ」と言へば、よみつ。また言はく、「なほいささか修行せよ。護身なんどせさするやうにて近づけ む」と言へば、修行に出で立つ日、姫君あはれみて藤の袴を調じて取らするに、片袴をばみづから縫ひつ。これを着て修行しあ りく程に、帰りて聞けば、 姫君そのまにうせにけり。 これを聞きて深く道心を起こしてひとへに極楽を願ひて往生しぬ。 弟子ど も後の事に行基菩薩を導師に請ひたるに、礼盤にのぼりて言はく、「真福田丸が藤袴、 我ぞ縫ひし片袴」とばかり言ひて、異事も 言はでおりぬ。弟子あやしみて問ひければ、「亡者智光は必ず往生すべきものの、はからざるに世間に貪着して悪道に行かむと せしかば、我方便してかくはこしらへいれたるなり」となむありける。姫君は行基の化身なり。行基菩薩は文殊の変化なり。真 福田丸は元興寺の智光なりといへり。 とんちゃく GN (注8) 1 -79-

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