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現代文 高校生

高3の現代文の問題です 定期テストでこの文章が出るのですが問題文はこのまま出るかわからないので皆さんに問題を予想してもらいたいです もし可能でしたら、今写真にある解答と予想問題の解説もお願いしたいです

高三文系 現代文 特別編 次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。 ふりょ 一般に、宗教は、何か倫理以上の奥深いものとして表象され ます。たとえば、大岡昇平は、戦後に戦場と俘虜の体験を「俘 虜記』に書きました。 彼は、小林秀雄が「魂のことを書け」と いったのに、「事実について書く」といって、それを書いたとい っています。彼は、冒頭の「捉まるまで」という章のエピグラ しんらん たんにしょう フとして、親鸞の言葉、「わがこころのよくてころさぬにはあ らず」を引用しています。 『歎異抄』ではつぎのようになって います。 しょうにん またあるとき、聖人は「唯円房は、わたしの言うこと を信ずるか」と仰せられたので、「さようでございます」と お答えしたところ、「それでは、わたしの言うことにそむか ないか」と重ねて仰せられたから、つつしんでおうけしま したところ、「たとえば、人を千人殺してもらえないか。も しそうすれば、かならず浄土に生まれることになろう」と 仰せられた。そのとき、「仰せではありますが、ただの一人 も、わたしの能力では殺せるとも思えません」とお答えし ましたところ、「それでは、どうして親鸞の言うことにさか らわない、というのだ」と仰せられた。 そしてさらに続け て、「これでわかるだろう。 すなわち、どんなことでも心の ままになるものならば、浄土に生まれるために千人殺せと いうときには、ただちに殺すだろう。しかしそうではあっ でも、一人でも殺せるような宿業のはたらきかけがないた めに、殺さないのである。自分の心が善くて、殺さないの ではない。また殺すまいと思っても、百人、あるいは千人 を殺すこともあるだろう」と仰せられた。 (『歎異抄』、第十三条) これは、要するに、人が殺さないのは、自由意志によってで はないということです。 『俘虜記』の「私」は、近づいてきた米 兵を撃たなかった。そのことが結果的に幸いしたのですが、な ぜ撃たなかったのか。それを自問することがこの作品の主題の 一つです。 この作品では、親鸞の言葉は、宗教的な信仰へではなく、徹 底的な「原因」の解明に向かわせています。というより、 大岡 は、そのような文脈において、親鸞を引用しています。 彼は「自 由意志」を認めていない。なぜ撃たなかったかという問いに大 岡が与えた解答は、最終的なものではありません。それは不透 明なままです。しかし、普通なら自分の意志で撃たなかったと いって片づけてしまうところを、そうしない、そのことが、 こ の作品を特異にしています。 ところが、彼は同じ体験にもとづいて、より小説らしい作品 『野火』を書きました。 おそらく、『俘虜記』は評判がよかった にもかかわらず、それは小説ではないと思われたからでしょう。 彼は、『野火』では、まさに小林秀雄がいった「魂のこと」を書 いたのです。しかし、これは『俘虜記』に比べて、小説として、 数段落ちるものでしかありません。まず、『野火』では、殺すか 否かではなく、人肉を食うか否かという問題になっています。 ニューギニアで放置されキガの極に達した日本兵の間にこの ような事件があったことは事実のようですが、 大岡はそれを「極 限状況」としてとりあげたわけです。 しかし、人肉食が殺人よ り残酷だとか、窮極的な悪だということはまちがいです。たと しるし えば、七〇年代に、アンデス山脈にフジチャクしたヨーロッ パの神学生たちが死んだ仲間を食った事件がありましたが、彼 らは「神の許しを乞うてからそうしたということで、それ以 上論議されもしなかったのを覚えています。ところが、大岡の 小説では、なぜか「神」が主人公に食うことを許さないのです。 もう一つの問題は「野火」のことです。 主人公が敗兵として 一人フィリピンの山野をさまよううちに「野火」が見えてきま す。誰が何のためにそれを送っているのかと、主人公は問い続 けます。それは神学的なシペンになり、この「野火」は絶対 的な他者(神)によって送られてきた徴だと解釈されたりも します。 しかし、大岡昇平がこれを小説らしくするために意図 的に忘れようとしていたのは、それがたんにフィリピンの島民 が燃やしたものだということです。それは焼畑農業をしている 農民です。要するに、『野火』に描かれた戦争には、相対的な他 者、すなわち、日本やアメリカが支配していたアジアの人間が 抜けていた。そのため、この作品は宗教的で深遠に見えて、実 は、クウソなものになるほかなかったのです。一方、宗教に 対して冷淡な『俘虜記』のほうに、むしろ世界宗教的な認識が あります。それは、「殺さなかった」ことが、私の自由意志によ るものではないということを徹底的に解明するものだからです。 世界宗教は人間の根源的な罪をいいます。 それは、ひとが自 分には罪がないと思うことを疑わしめるために、そして、その ためにのみ必要です。たとえば、イエスが、「心のうちに姦淫 する者は、すでに姦淫する者なり」とか、「汝らのうち、罪な き者、石もて撃て」とか言ったのは、そのためです。 それらの言葉が意味 す るのは、われわれは 実際には罪を犯し ていなくても、間接的には犯しているのだ、ということです。 これは、個人を、社会的な関係において見ることです。われ われは、媒介的に、あらゆる人々と関係しています。たとえば、 私は牛を殺していないが、ビフテキを食っている。私は軍事的 ・経済的帝国主義に反対であるが、それによって得られた生活 水準を享受している。だから、根本的に考えようとするならば、 直接的に手を下しているかいないかという差異を括弧にいれな ければならない。しかし、宗教は、それを、人間の罪深さとい うことによって、すべての人間を許すということになってしま うのです。実際に姦淫するかしないか、実際に殺すか殺さない かという差異は、A性の前では無くなってしまう。 しかし、 それと同時に倫理も無くなってしまうのです。 しつよう なんじ その点で、「俘虜記』における「私」の、「なぜ米兵を撃たな かったか」という執拗な自問自答は、撃っても撃たなくても 本当は同じだというのとは違います。「私」は、撃たなかったこ とをよかったと考えており、しかし、自分の意志でそうしたの ではなかったというだけなのです。たとえば、 坂口安吾は戦後 にこう書いています。 《なぜ犯罪者をヨビステにしなければなら ぬか。犯罪は憎むべきである。然し、罪を犯さぬ人間がおるか。 ヤミの米を食うことも罪ではないか》(「詐欺の性格」)。 これは 親鸞を『ソウキさせる言葉です。 しかし、これは戦後においてはしばしば、誰が人の責任を問 えるのか、つまり、誰にも責任がないというような論理として 使われたことに注意すべきです。それに対して、安吾はただち にこう付け加えます。 《万人がヤミの米を食う、そうしなければ かんいん

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現代文 高校生

合ってますか? 教えて欲しいです。

にどんな災難が降りかかるかも想像がつく。 そして、それらはみな、自分一人で 行うことだ。 ?「それら」とは、何を 指すか。 しかし、十分危険だが微量の放射能の存在は、人間の感覚器官には感知されな い。巨大な打ち 置から宇宙に射出されるような乗り物に生じうる事故も、 通常の意味での直観的把握を超えている。理論的なリスクの査定はできても、感 覚的には実感できない。 しかも、原子力発電所も、NASAも、一人一人は巨大 な作業のほんの一部を担っているだけであって、自分自身の判断のミスがどれほ ど最終産物の危険に貢献するのかは、これまた実感できない。 びゅう 昔から「ギャンブラーの誤謬」と呼ばれているものがある。ルーレットで赤、 赤と続くと、次も赤であるような気がしてくる。 赤、赤、赤、赤だと、次は黒で あるような気がしてくる、という誤りだ。赤が出るか黒が出るかは、過去の記録 に関わりなく毎回五割である。東海村の施設もNASAも、 危ないが訳の分から し、 真の危険を顧み りが自分 も安全である WTH 36 人間にとって、確率的な事象を正確に把握し、判断を下すよりも、数回の経験 をもとに因果関係を類推して、この次も過去と似たようなことが起こると考えた ほうが、進化史上では、ずっと適応的だったにちがいない。たま二 たときの損失は、今よりもずっと小現三 人間と知性

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