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評論
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日本的思考は、しばしば、模倣をこととする雑居性を特徴とするといわれる。それは、かつては中国を
模倣し、近代では西欧を模倣したといわれる。それがひどくいけないことのようにいわれるのは、
空欄に適当
異化である。差異と反復が模倣の本質である。そうなると、模倣と独創との差異の境界はきわめて小さく
なる。西欧諸国の文化は、ギリシアとローマの差異化的模倣である。日本の場合にも同様に、中国と西欧
の差異化的反復である。差異化には、何らかのオリジナルな改作的工夫が必要である。
日本では、I_、儒教を儒学に変換し、宗教性をできるかぎり払拭して、操作可能な「知識」へと改
作する。これは日本におけるひとつの独自な特徴である。キリスト教であれ何であれ、宗教性がなくなる
わけではないが、宗教性は、他国にくらべて限りなく小さくなる。日本では、宗教的イズムが、宗教戦争
なしに共存できるが、それは諸宗教がいつのまにか操作可能な、道具性の知識に転換しているからである。
またそのゆえに、日本では、ある宗教イズムから他のものに容易に転向できるのである。転向は道徳的に
いかがわしいと感ずる意識は、純粋主義のイデオロギーのなせるわざであり、日本人は古来つねに転向を
やり続けてきたのである。古代における中国文化の導入はひとつの転向であったし、そして近代における
西欧との出会いは、中国文化から西欧文化への転向を劇的に実現した。すべてを道具的な操作可能な実用
知に変換すること、これが日本の文化の雑居性を生みだす原因、いやむしろ精神の鋳型である。
しかし雑居は、そのままでは雑種性にいたりはしない。たしかに雑居を許す文化は、雑居を許さない純
粋主義文化よりも、雑種性を生む可能性は高い。
動的に雑種を生むわけではない。われわれは、雑居環境を存分にいかして、雑種文化という本来の文化の
ありかたにいたる道を構想しなくてはならない。
雑居は他者の文化を変換する装置が作動した結果をさす用語であり、雑種は精神の創造力に関わる用語
である。雑居性は雑種の精神なしにも可能であり、雑居はかならずしも雑種の精神に通ずるものではない。
雑種の精神がないままに、他者の文化との出会いを喜び、それを実用知に変換するだけでは、雑居的流行
しか生まれないであろう。日本人がタイテイやっているのはまさにこれだ。日本人は一般に、雑居性のなか
に雑種性を溶解し、雑種の精神を自覚的にバイヨウすることを無視してきたと思われる。
tすは純粋なるものがいかに空虚であるかを自覚してかからなくてはならないだろう。なぜなら、か「2
日本的
居性を特
質は一
|による。模倣は簡単なことではない。改作なしの模倣などどこにもない。反復はかならず差
5
日本
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換する
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主張
=それはあくまで環境ないし条件ではあっても、自
力に
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て一度も、純粋な文化も、純粋な精神も、存在したことはないからである。なるほどI?
紙の思想家