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伝えるという意味では一種の代表機能を果たすと考えている。選挙や無作為(チュウシュツの世 5
論調査と異なり、デモなどは、一部の人びとが勝手に参加するものなので、全体の世論分布を反
映せず、したがって「代表性」がないという議論も根強いが、それなら、なぜ多くの国々で、街
頭デモによって政権が(選挙を通じてつくられた政権でさえも)倒れるのか。多数の人びとが参
加するデモが、民意を示す一つの重要な手段であることは、国際的に確立されている。
こうした筆者の議論に対して、代表制をそのように多元化すれば、政治の「スピード感」が失
われ、結果的には決定が遅延し、政治そのもののパフォーマンスが低下するという批判が寄せら、
れるかもしれない。図分功一郎と村上稔の討論「変革の可能性としての市民政治」で、国分は次
のように指摘している。「住民運動に反対する人は、日本は『間接民主主義』や「議会制民主主義」
というかたちで民意をくみとっているのだから、それ以外の手段を出してくるのはおかしいと言
さらに筆者は、制度化されていない、たとえば街頭でのデモのようなものも、人びとの意思を
うんですね。驚くべきことに、学者でもそういうことを言う人がいます。
筆者自身は、経済や環境をめぐるグローバル化が大きな影響をもつ今日、決断主義的な政治の
枠組みをつくり出そうとしても、現状に合わず、事態の改善につながらないと考えている。それ
よりは、右にもふれたように、より多元的なチャンネルを用意する方が、まだしも可能性がある
と思う。その意味で、筆者:1鈴木の間題意識に共感するところが大きい。
ただし、何か良い枠組みをつくり出せば、万事うまく行くという見通しについては、筆者は 0
、かなり懐疑的である。実は制度改革論という点で、鈴木の考え方と政治改革論との間には、
一定の類似性が感じられる。むしろ筆者は、どんな制度によっても民意が完全には汲み尽くせな