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せんさん
51 「もどかしさ」の融合
ナ
評論解析A
評論解析A-3
の解析マスター③ 具体例の働きをつかむ
+ 解析マスター⑦ 効果的な表現
1 巻頭1 評論を読み解く 解析マスター
ささき ゆきつな
「もどかしさ」の融合
佐佐木幸綱
一九三八(昭和13)年~。歌人。 東京都生まれ。本文は「佐佐-
の世界8」(一九九九年刊)によった。
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
いしかわたくぼく
握れば指のあひだより落つ
(石川啄木)
2ゆかわひでき
湯川秀樹はこの歌を次のように鑑賞する。「………「いのちなき』の歌)は私にとって、特別に意味深く感ぜられる。
自然界の真理をつかもうと、どんなに努力しても、砂のようにさらさらと指のあいだから抜けていってしまう。そう
いうもどかしさ、私が何度も経験した気持ち、それがこの歌によって実にみごとに表現されていると私は思う。啄木
自身はもっと違った気持ちを表現したのであろうが、その詮索は私には不必要である……。」
3しぶたみ
もり
ひそう
4いわさきはくげい
啄木は「もっと違った気持ちを表現したのであろう」というところが重要である。 老母を渋民村に残し、妻子を盛
岡の実家に預けて、わずかに妹を伴って虚無的なあるいは悲愴な気持ちで北海道に渡った、そんな時期の啄木の哀傷
がこの歌の背景にあるという。しかし、例えば作中の「砂」は、岩崎白鯨が「啄木と私はよく大森浜へ行った。啄木 1
の歌集にある海岸や砂原の歌はみな大森浜の歌だ。」と言っているように、 啄木の原体験を詮索すれば大森浜の砂だ
ったかもしれないが、公園の砂場の砂でも、マイアミ・ビーチの砂でも、あるいは「真理の砂」でもよいように表現
されてあり、また事実そうした砂であったかもしれないのだ。啄木の短歌にはこのように体験の痕跡を消し去ろうと
する姿勢が濃厚である。 「一握の砂」巻頭のこの歌を含む海岸や砂原でうたった歌十首だけを見ても、このことは十
いちあく
感じて得る
分に納得できるはずである。 彼は砂原にいた体験をうたっているのではない。 啄木はその体験を通して感得した、湯 5
川の言を借りれば、「もどかしさ」をうたおうとしているのだ。だが啄木自身「もどかしさ」の全体を捉え得ている
わけではない。啄木はこの「もどかしさ」の彼なりの核を〈他者への信頼〉に支えられて表現したにすぎないのであ
り、その全体は、例えば湯川が湯川なりの「もどかしさ」の核と啄木の「もどかしさ」の核とを融合させることによ
って、初めてその一面を明らかにするのである。
私はこの享受者が作品の全体を完成するために作品に参加することを、読者が作者と〈共犯関係〉を結ぶ、と呼ん 2
でいる。つまり、啄木は〈他者への信頼〉に励まされて、この〈共犯関係〉を期待しつつ短歌を詠んでいるのだ。だ
から、啄木は「違った気持ちを表現した」、というより、違った境涯にあったために同じ気持ちの別の側面を射照し
た、と言う方が正確であろう。
ほ
どのようなジャンルであれ、作者と享受者の関係は、大なり小なり作品を媒体にして、この共犯関係》を期待す
る。しかし、短歌の場合は、この期待のみによって成り立っていると言っても過言ではない点にその特色がある。 23
《他者への信頼》 なくしては、そもそも短歌それ自体が生まれなかっただろう、と私は思う。
石川啄木 一八八六~一九三。 歌人・詩人。 「一握の砂」は啄木の第一歌集。
2 湯川秀樹 一九〇七~一九一。理論物理学者。
3 渋民村 今の岩手県盛岡市玉山区渋民。 啄木が幼少期を過ごした。 4 岩崎白鯨 一八六~一九一四。歌人。啄木の函館時代の友人。
5 大森浜 北海道函館市の津軽海峡に面した海岸。 6 マイアミ・ビーチ Miami Beach。 アメリカのフロリダ州にある観光都市。
7 射照 照らすこと。照射。
の解析1 湯川秀樹の鑑賞は、筆者がどのようなことを説明
するための具体例か、まとめよ。
解析2 読者と作者の関係を、「〈共犯関係〉」と表現して
いることにはどのような効果があるか、説明せよ。
要約本文の内容を二百字以内で要約せよ。
しょう