*しんし
はら
わず
いや少なくとも私が書くルポルタージュなどというものも、それが絶対の真実を 35
伝えるなどというたいそうなものではなく、僅かにどこがわかりどこがわからな
かったかを明らかにできるだけの私的な中間報告にすぎないことが理解できてく
る。たとえそれが、どれほど見事に完結した結構を持っていたとしても、せいぜ
いがひとつの仮説にすぎないのだ。多分、あらゆる記事、レポートは中間報告で
あり仮説である。 テレビで、朝となく昼となく主婦向けの番組で流されつづけ
ている、いわゆる芸能レポーターたちのゴシップは、いかにも胡散臭いから逆に
救われているところがある。最近では、彼らのレポートを見聞きして、それをそ
のまま信じてしまう人はあまりいないだろう。意識するとしないとにかかわら
ず、それを一種の仮説と受け取る訓練ができているのだ。
様
もしかしたら、本当に怖いのは彼らのヤクザなレポートではなく、いかにも
真摯で、いかにも世を憂い、いかにも真実はこれだ、と主張しているようなもの
うれ
*うさんくさ
かもしれない。それ自体が単なるひとつの仮説にすぎないということを忘れ、書
き手も読み手もこれを唯一無二の真実だと思い込んでしまう。そのようなレポー
ト、記事は、書き手の善意の有無にかかわらず、常に危険なものに転化していく
可能性を孕んでいる。
愛
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