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19 ミロのヴィーナス
ちに襲われるのだ。選ばれたどんなイメージも、既に述べたように、失われていること以
上の美しさを生み出すことができないのである。もし真の原形が発見され、そのことが疑
いようもなく僕に納得されたとしたら、僕は一種の怒りをもって、その真の原形を否認し
多なぜ「真の原形を否認
したい」のか。
たいと思うだろう、まさに、芸術というものの名において。
を
ここで、別の意味で興味があることは、失われているものが、両腕以外の何ものかであっ
てはならないということである。両腕でなく他の肉体の部分が失われていたとしたら、僕
がここで述べている感動は、恐らく生じなかったにちがいない。例えば、目が潰れていた
り、鼻が欠けていたり、あるいは乳房がもぎとられていたりして、しかも両腕が損なわれ
ずにきちんとついていたとしたら、そこには、生命の変幻自在な輝きなど、たぶんありえ
なかったのである。
なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか? 僕はここで、彫刻におけるトル
oLミ> torso(rタ
リア語)頭部、腕、脚
を持たない、開体だけ
の彫像。
ソの美学などに近づこうとしているのではない。/腕というもの、もっと切り詰めて言えば、
手というものの人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。そ
れが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか? ここには、実体と象徴
のある程度の合致がもちろんあるわけだが、それは、世界との、他人との、あるいは自己