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なぜ「真の原形を否認
したい」のか。
真の原形を否認したいと思うだろう、まさに、芸術というものの名において。
O ここで、別の意味で興味があることは、失われているものが、両腕以外の何も
のかであってはならないということである。両腕でなく他の肉体の部分が失われ
ていたとしたら、僕がここで述べている感動は、恐らく生じなかったにちがいな
い。例えば、目が潰れていたり、鼻が欠けていたり、あるいは乳房がもぎとられ
ていたりして、しかも両腕が損なわれずにきちんとついていたとしたら、そこに
は、生命の変幻自在な輝きなど、たぶんありえなかったのである。
のなぜ、失われたものが両腕でなければならないのか? 僕はここで、彫刻にお
torso
トルソ
リア語)頭部、
を持たない、
けるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もつっと
そ
切り詰めて言えば、手というものの人間存在における象徴的な意味について、注
の彫像。
目しておきたいのである。それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはな
んだろうか? ここには、実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけだが、
それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段であ
「そうした関係」と
何を指すか
る。言い換えるなら、そうした関係を媒介するもの、あるいは、その原則的な方
式そのものである。だから、機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用い
た比輪はまことに美しく聞こえるし、また、恋人の手を初めて握る幸福をこよな
ヒュ
くたたえた、ある文学者の述懐は不思議に厳粛な響きを持っている。どちらの場
Sアイロニー irony
合も、極めて自然で、人間的である。そして、例えばこれらの言葉に対して、美
肉。反語。
術品であるという運命を担ったミロのヴィーナスの失われた両腕は、不思議なア
こよなく
4ロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる
手への夢を奏でるのである。
口
葵でる
目演奏
清岡卓行。一九ニ二年(大正=)||二0O六年(平成18)
中国遼 寧省大連(ターリエン)に生まれた。詩人、小説家。詩と小説を並行させる創作活動を通じて
夢と現実の関わりを描く。主な著作に、 詩集『氷った焔』『ひとつの愛』、小説『アカシヤの大連』 『海の瞳』、
評論『好情の前線』などがある。「ミロのヴィーナス」は、『手の変幻』(-九六六年刊)に発表。本文は
の変幻』(一九九〇年刊)による。