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40 20. 室町幕府の成立 ①
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JAFR
MT
【重要用語】
① 鎌倉幕府はなぜ滅亡したのか。
ようりつ
ほくちょう じゅりつ
基盤とし,のち足利氏に擁立されて京都に北朝を樹立した。
□12(大覚寺統
② 天皇親政の理想をかかげた建武の新政が短期間で崩壊したのはなぜか。
へん
けんむ
正中元弘の変を経て鎌倉幕府を滅ぼし, 建武の新政を実現。
□14 (
挙兵し, 諸国の反幕軍の興起を促した。 建武の新政で重用。
新田義貞
こうき うなが
15
1305~58 鎌倉幕府の有力御家人であったが,元
ろくはらたんだい
りはん
弘の変で六波羅探題を攻略し, 新政に参加。 のち離反。
60
1301~38 鎌倉幕府の御家人。 元弘の変で鎌倉を
あしかがたかうじ
攻撃し幕府を滅ぼした。 建武の新政で足利尊氏と対立。
170
がわら
らくしょ
〕 1334年京都二条河原に立てられた落書で, 建武
ふうし
ねんかん き
新政権下の混乱ぶりを風刺した。 「建武年間記』 に収められる。
こうごん
□180
1321~80 足利尊氏に擁立され持明院統から光厳
せいい
天皇のあとを継ぎ即位。 1338年尊氏を征夷大将軍に任命した。
90
よしの
〕 1336年, 後醍醐天皇が吉野に開いた大覚寺統の
・朝廷。 北朝を擁立する室町幕府と争い, 南北朝の動乱を現出。
にかいどうぜえん
) 1336年,足利尊氏が二階堂暮らに諮問し,替
鎌
倉
幕
府
③ 南北朝の分立とはどのようなものであったか。
尊
だいかくじとう
13 (後醍醐天皇) 1288~1339 笑覚寺統から即位。 親政を行い,
しん
しせい
申された室町幕府の施政方針。
11
じんのうしょうとう き
中心人物。 南朝の正統を主張した 『神皇正統記』を著した。
氏
□120
こうのもろなお
しゅうしゅう
氏の執事 高師直と直義の対立に始まり、尊氏の直義毒殺で収拾。
じみょういん
基盤とし、鎌倉幕府の干渉により持明院統と交代で皇位についた。
20. 室町幕府の成立 ①
建武の新政と南北朝の内乱
MARCUSKE AT
ごふかくさ
こうとう
ちょうこうどう
後深草天皇に始まる皇統。 長講堂領を経済的
かめやま
はちじょうにょいん
亀山天皇に始まる皇統。 八条女院領を経済的
かわち
どう
ごだいご
おう
】1294~1336 河内の土豪。 後醍醐天皇に呼応して
朝
大覚寺統]
後醍醐天皇
ごむらかみ
1293~1354 後醍醐・ 後村上天皇に仕えた南朝の
文保の和談
南北朝の内乱
ただよし
1350~52年の足利尊氏と弟直義の対立抗争。尊
6 with
(両統)
1迭立
後醍醐天皇吉野に移る
南関東・九州で
戦う
正中の変
元弘の変
<建武の新政 (二条河原の落書)
筑後川の戦い
(菊池氏)
「持明院統」
尊氏入京、 光明天皇擁立
建武式目制定
北 室町幕府
尊氏, 一時帰伏朝 半済令
一観応の擾乱
守護大名
りょうとうてつりつ
◆両統迭立
持明院統と大覚寺統が皇位を争っ
たため, 1317年幕府の仲介で文
保の和談が成立し, 両が交代で
皇位につくこととなった。
したかとき
北条高時
たかすけ
鎌倉幕府14代執権で、最後の得
宗。 内管領長崎高資に実権を握
られ、幕政を乱した。
もり
◆◆護良親王
後醍醐天皇の皇子。 父を助け討幕
運動に活躍し、 建武新政府で征夷
大将軍となるが、足利尊氏と対立
ゆうへ
なかせん
し失脚。鎌倉に幽閉され、中先
代の乱の時足利直義に殺害された。
いらいついか
◆建武以来追加
しきもぐ>
じょうえい
建武式目は施政方針を述べたもの
で, 基本法としては永式目が
用いられた。そして貞永式目の追
加や修正は、建武以来追加といわ
たいへいき
ぱいしょうろん
「太平記」と「梅松論」
どちらも南北朝の動乱を題材とし
また軍記物語であるが、 「太平記」 は
南朝の側から,「梅松論」は足利尊
氏の側から描かれ、 好対照をなす。
〔地方〕
建武政府の職制
天皇
〔中央〕
国司・守護 (
陸奥将軍府
鎌倉将軍府
-武者所(警備)
しゃどころ
雑訴決断所
ぎつけっぱんしょ
T恩賞方(思食事」
記録所(重要政